日本の映画史に残る「幕末太陽伝」(主演:フランキー堺)を撮った、監督・川島雄三が1963(昭和33)年6月12日急死した。川島くらいオーソドックスを嫌い、アブノーマルを愛した男はいない。
日活
文芸・喜劇・任侠・時代劇の当たり年
吉永小百合の「愛と死をみつめて」が興行収入ダントツの1位だった。若者を中心に初日から、お客が詰めかけ大ヒットになった。またミコとマコの物語は青山和子の歌でも大ヒットした。
日活の映画製作再開で業界が太混乱!(昭和29年)
日活の映画製作再開で業界は俳優やスタッフの引き抜きに戦々恐々だった。日活に対抗して五社協定が結ばれるが、この事で日活は独自にスターを発掘していく。
テレビの普及で観客動員が下降
日活は石原裕次郎作品を積極的に公開し、裕次郎が一世を風靡した。高倉健はアイヌ問題を描いた作品に出演した。ヒットはしなかったが高倉健の初期の代表作になった。
1956(昭和31)年の世相
昭和の大スター石原裕次郎、生涯総出演映画102本も。1987(昭和62)年7月17日5日52歳だった。
1956(昭和31)年の世相
日活の救世主として現れた裕次郎。その型破りな存在感が若者を捉えた。その後、日本を代表する俳優へと成長する。
日活最後の作品大ヒット
「映画が復活した!」映画館の前に長蛇の列ができるという、ここ数年見られなかった景気の良い現象まで起こっていた。
国策プロパガンダ映画が多く作られた
何かにつけて「非常時であるから」という言葉が優先され、国策、戦意高揚映画も多く作られ満州映画協会(満映)が設立された。
最後まで神秘に包まれた女優「原節子」
原節子主演で数々の名作を残した小津安二郎監督は原のことを「お世辞抜きで映画女優としては最高だと思っている」と語っている。
映画業界の内紛
俳優、スタッフの引き抜き、引き抜き大物俳優、監督を優遇。東宝作品の混合上映を禁ずる「東宝ボイコット」などの混乱続く。
「1971(昭和46)年の世相
日活がしぶとさを発揮したのは、この直後から。ポルノ映画専門会社に変身した。日活ロマンポルノ発足の早業だった。
軍靴の音高く「暗い時代」に
「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げてクーデターを起し大臣3名を殺害。国会を含め国政の心臓部を占拠する2・26事件勃発。
大戦の余波、大震災でも
大震災で東京が壊滅したことによって、むしろ従来の映画界の旧習を廃して、新しい体制が生まれつつあった。
日本映画の大転機に繋がった
今まで日本映画になかった明朗な庶民生活、社会風刺、健康な恋とお笑いなど、現実生活を描くことで観客から支持された。
ニュース映画の持つ商品的限界
劇場映画では定番であったニュース映画もテレビの出現で速報性が失われ、今ではニュース映画は完全に消えてしまった。
活弁士の見せ場を作る映写技師
ヨーロッパが戦場となった。その間、チャップリンなどの、アメリカ活動映画が盛んに日本市場めがけて入って来るようになった。
活動写真ファンは洋画を熱望
冒険活劇が展開されて行くというイタリア史劇の活動写真「カビリア」が東京帝劇で封切り、特等5円の入場料でも話題を呼んだ。
無声映画・活動弁士の時代
横田永之助は、国産活動写真四社を合併させて「日本活動フィルム株式会社」を創立した。「日活」の誕生である。
日本映画産業の巻頭を飾る
日本に活動写真上陸。「シネマトグラフ」と「ヴァイタスコープ」という映写機が日本に初めて登場します。