批評家は任俠映画を無視していた。三島由紀夫の賛辞で任俠映画も芸術面での評価を獲得し、これで市民権を得ることに成った。
マキノ雅弘
ストライキが、逆に会社の足を引っ張った
終戦後の映画界では労働組合運動が他の産業界に率先して生まれた。1945年から48年にかけて映画界は労働争議に明け暮れた。
1947(昭和22)年の世相
田村泰次郎の「肉体の門」がベストセラーになった。敗戦国・日本の悲しい現実が描き出されていた。東宝で映画化され大反響を呼んだ。
シネマテーク運動の衰退
日本映画界が、絶望的な落ち込みをみせる1965年代の始めころ、全国各地で熱烈な映画ファンよるシネマテーク運動が起こっていた。
サイレントからトーキーへ
0 1926(昭和元年)年〜1934(昭和9)年 シリアスな「国定忠次」受ける 1927(昭和2)年、サイレント映画の名作が生まれた。京都の日活大将軍撮影所で製作された、大河内傅次郎主演の「忠次旅日記」(監督・伊藤大輔) […]