目玉の松ちゃんこと、尾上松之助が急逝。会葬所までの沿道に、棺を見送る市民が20万人。いかに大衆に愛されていたかが伺えた。
大正
松竹系、日活系、マキノ系の三つ巴
日本の活動写真の方は、松竹系、日活系、マキノ系と三つ巴の合戦だった。モボ、モガなど大正ロマン華やかなりし時代だった。
一世を風靡した無声映画に台本なし
牧野省三の非凡な才覚と映画に関するカンの良さで、全盛期は、3日に1本の割で松之助映画を、どんどん作って行った。
規則の大改正で弁士許可制に
震災で東京から劇場が無くなってしまい、一流の弁士が仕事も無く、中には東京を捨てて地方に活路を求める者も多かった。
大戦の余波、大震災でも
大震災で東京が壊滅したことによって、むしろ従来の映画界の旧習を廃して、新しい体制が生まれつつあった。
日本映画の大転機に繋がった
今まで日本映画になかった明朗な庶民生活、社会風刺、健康な恋とお笑いなど、現実生活を描くことで観客から支持された。
映画事業は開花期から成長期へ
大正9年。日本の映画界は、古典劇的活動写真から洋画を手本とする純活動写真をめざして、急激な変容を遂げつつあった。
脚本が必要な事を証明した大作
日本映画初のシナリオ作品「生の輝き」避暑地の高原を舞台に、軽薄な貴族の息子と恋をして捨てられる純真な少女の物語。
活弁士の見せ場を作る映写技師
ヨーロッパが戦場となった。その間、チャップリンなどの、アメリカ活動映画が盛んに日本市場めがけて入って来るようになった。
活動写真ファンは洋画を熱望
冒険活劇が展開されて行くというイタリア史劇の活動写真「カビリア」が東京帝劇で封切り、特等5円の入場料でも話題を呼んだ。
活動写真のスーパースター
「目玉の松ちゃん」こと、尾上松之助は、生涯に1千本あまりの活動写真に出演した日本最初の大スターである。
弁士は大学出の6倍の高給取り
活動写真の初日には町廻りというのがあって、楽隊を先頭にノボリや横幕をかつぐ者、チラシをまく者などが町中を練り歩いた。
無声映画・活動弁士の時代
横田永之助は、国産活動写真四社を合併させて「日本活動フィルム株式会社」を創立した。「日活」の誕生である。