映画界は絶体絶命ともいえるぐらい極端な不況に悩まされていた。カラーテレビの本放送が始まり、映画はテレビを、これ以上敵対視することができず、自滅より共存する道を選択する。
昭和(中期)
映画界に残酷ブーム起きる(昭和37年)
残酷描写の決定版が「忍びの者」である。忍者たちが、血で血を洗う残忍さを、山本監督はねばっこく描いた。この残酷プレーが人気を得て、「続・忍びの者」「新・忍びの者」と忍者ブームのキッカケをつかんで行く。
1965(昭和40)年の世相
女優の岸恵子、久我美子、有馬稲子の3人を中心に「にんじんくらぶ」結成。大作「怪談」の製作に挑み作品は高い評価を得たが赤字計上で倒産。
文芸・喜劇・任侠・時代劇の当たり年
吉永小百合の「愛と死をみつめて」が興行収入ダントツの1位だった。若者を中心に初日から、お客が詰めかけ大ヒットになった。またミコとマコの物語は青山和子の歌でも大ヒットした。
1964(昭和39)年の世相
東京オリンピックで、白黒テレビが一気に家庭へ普及し、日本中がオリンピック景気に沸いた。近代化へと変革を遂げる年だった。
1963(昭和38)年の世相
国際映画祭で今井正監督の「武士道残酷物語:東映が金熊賞を受賞する。アニメ「鉄腕アトム」「狼少年ケン」「鉄人28号」「エイトマン」も放送され茶の間は一気にテレビアニメの時代がやって来た。
三船君、本当によくやったなあ
「三船無くして黒澤無し」と言われるほど黒澤作品に欠かせない存在。黒澤は三船の死後「三船君、本当によくやったなあと褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません」と語った。
三船敏郎と黒澤明監督との16作品
黒澤明監督と三船敏郎の名コンビでヒット作が続々と生まれる。黒澤明は「一言いうと10わかる。珍しいほど監督の意図に反応する。こいつを生かしていこうと思った。」と語っている。
黒澤明とのコンビで日本映画界を牽引
黒澤明は三船敏郎のたぐいまれな才能を見抜く。その後、黒澤明とのコンビ作品が続き日本映画界を牽引していく。三船敏郎は国際映画人として世界中に影響を与え尊敬された。
時代劇に革命が起きた
「椿三十郎」で演出した血飛沫が噴き出す表現が観客を驚かせた。今までのリアル感の無い時代劇が衰退する。日本時代劇の変革だった。以降東映に「ヤクザ映画」が台頭して来る。
70mm映画時代到来
日本初の70㎜映画は大映が製作した「釈迦」である。次年製作の70mm映画「秦・始皇帝」が配収トップを取った。
赤木圭一郎の死・時代背景
日活俳優・赤木圭一郎が、日活撮影所内の塀にゴーカートで激突。歌手・美空ひばりと俳優・小林旭が結婚。クレージー・キャッツの植木等が「ニッポン無責任時代」で日本中に旋風を巻き起こす。
人々をテレビの前にくぎづけにした
2つのバラエティー番組が人々をテレビの前に釘づけにした。テレビ番組「夢であいましょう」「シャボン玉ホリデー」歌や踊り、爆笑コントに茶の間は華やかなショーに酔いしれた。
大衆芸能の発展に尽した森繁
本業の俳優で大ヒットした「社長シリーズ」以外にも歌手、朗読、ミュージカル俳優としても活躍。国民栄誉賞、文化勲章など勲位、叙勲、褒章、表彰も多い。
「裸の島」と「地の涯に生きるもの」
解散記念作とし臨んだ新藤兼人監督の「裸の島」が話題を集めた。森繁久彌が北海道の映画ロケ地去る時に即興で作った歌が「知床旅情」としてリリース第13回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。
1960(昭和35)年の世相
岸信介内閣は安保条約改定を強行採決した。全学連は国会に突入し東大の樺美智子が圧死した。国会前では33万人がデモに参加した。
1959(昭和34)年の世相
昭和基地に置き去りにされた樺太犬の2頭(タロ、ジロ)の生存を確認、国内は大ニュースになった。高倉健と江利チエミが結婚。
テレビの普及で観客動員が下降
日活は石原裕次郎作品を積極的に公開し、裕次郎が一世を風靡した。高倉健はアイヌ問題を描いた作品に出演した。ヒットはしなかったが高倉健の初期の代表作になった。
1958(昭和33)年の世相
スーパールーキー巨人・長嶋茂雄が公式戦にデビュー。金田正一投手の前に4打数、4三振と華やかな登場だった。
戦前、戦後を通じて活躍した大女優
木下恵介とコンビを組み、以降「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾年月」など計12本の木下作品に出演する。