阪妻は出演を一度断っている。監督の稲垣浩の再三再四出演依頼で引き受けた阪妻は日本映画史上に残る名演技を生み出した。
昭和(初期)
文部省選定、海軍省後援の誤魔化し
監督や俳優よりも、陸軍航空本部監修、情報局選定国民映画、文部省選定、海軍省後援という大きなゴシック文字が必ずついた。
正義のためと国策映画罷り通る
0 1935(昭和10)年〜1944(昭和19)年 映画を国策宣伝に利用 1939(昭和14)年9月、ナチスドイツがポーランドに侵攻して以来、ヨーロッパ全土が再び戦場と化していたが、この大戦で、軍部は映画を敵国侵略の有力 […]
世界の映画界を覆う黒い影
暗い足音が、ひたひたと近づいて来るのが誰の目にも明らかだった。それはやがて、硬く重い、軍靴の響きに変わろうとしていた。
国策として作られた満映の大スター李香蘭
山口淑子(李香蘭)は後年、自分の出演作を見て「私の愚かさ、無知が口惜しくて涙が止まらず、3日3晩眠れなかった」と語った。
国策プロパガンダ映画が多く作られた
何かにつけて「非常時であるから」という言葉が優先され、国策、戦意高揚映画も多く作られ満州映画協会(満映)が設立された。
映画スター時代の到来
突然暴漢に襲われ、2枚の安全カミソリで売り物の左頬を2筋深くえぐられ、骨膜に達する深手を負った。
映画業界の内紛
俳優、スタッフの引き抜き、引き抜き大物俳優、監督を優遇。東宝作品の混合上映を禁ずる「東宝ボイコット」などの混乱続く。
軍靴の音高く「暗い時代」に
「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げてクーデターを起し大臣3名を殺害。国会を含め国政の心臓部を占拠する2・26事件勃発。
もう1人いた美空ひばり
美空ひばり芸能界を去る。ときに1943(昭和18)年20歳の秋だった。歌謡界の女王となる美空ひばりはまだ6歳だった。
理屈抜きで面白い大都映画に支持された
大都映画の製作方針は、大衆層や少年層を対象に、もっぱら愉快な娯楽作品、通俗作品を提供し、全て娯楽に徹することであった。
粗製乱造トーキーでも観衆から支持され
日本でも田中絹代の「マダムと女房」が本格的トーキー映画として成功し、弁士たちは益々片隅へと追いやられていった。
トーキーが8割を占める弁士受難
昭和8年、本格的トーキー映画「モロッコ」が上映され、このころにはトーキーが8割を占め、弁士の生活が脅かされ始めていた。
我が国において新機軸のコメディアン
劇場のモギリだった男が、仕方なしに代役で舞台に立った。その男こそが浅草花月劇場を主舞台として大衆を沸かせた益田喜頓だ。
トーキーのセリフ下手お国訛りが逆受け
日本映画トーキー第1作は「マダムと女房」である。主役の田中絹代の下関なまりの声が意外と愛嬌と色気があると評判を取った。
観客はトーキーの素晴らしさを知った
字幕付きトーキー映画ゲイリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒの「モロッコ」で活弁士の息の根は完全に止められた。
活弁の鼻息はまだまだ荒かった
アメリカのレコード式トーキー映画「ドン・ファン」の出現は、あっという間に全世界に広がった。ただ、日本だけは悲しいかな、活弁全盛の下で黙殺された。しかし、皆川芳造は、この好機を逃そうとはしなかったフィルム式トーキーによる発明が次々となされていた。皆川が渡米したのは、まさにその時期だった。
トーキーの足音が聞こえる
映画のトーキー化の試みは古くから行われていた。日本でも意外と早い時期から、ディスク式トーキーが試作されていた。
マキノ映画の名作誕生
表返ったのじゃッ!日本映画史上に残る「浪人街」の名セリフ。「浪人街」は時代劇映画史上初めて集団殺陣というジャンルを切り開いた。
サイレントからトーキーへ
0 1926(昭和元年)年〜1934(昭和9)年 シリアスな「国定忠次」受ける 1927(昭和2)年、サイレント映画の名作が生まれた。京都の日活大将軍撮影所で製作された、大河内傅次郎主演の「忠次旅日記」(監督・伊藤大輔) […]