

僕は「映画作家」と言い続けた姿勢
映画監督の大林宣彦さんが令和2年4月10日午後7時23分、肺がんのため東京都世田谷区の自宅で死去した。82歳だった。
大林監督は広島県尾道市で医家の長男として生まれた。2歳でブリキ映写機のおもちゃで遊び、映画に目覚めたという。
少年期は実家の持ち家に住んでいた新藤兼人(後の脚本家・監督)と、毎週近くの活動写真を見ていたことも。
成城大学文芸学部に入学後、自主製作映画を作り始め、21歳で中退。その後、8㎜でドキュメンタリー映画を製作し、自主上映などを行っていた。
1964(昭和39)年、新宿紀伊国屋ホールの開館イベントとして「60秒フィルムフェスティバル」を企画。
このイベントで上映された作品が電通のプロデュサーに認められ、CMデレクターの道を歩むことになった。
日本の経済成長と相まって、大林の作ったCMが数々大ヒット。これが評価され映画を撮るようになる。
その第一作が1977(昭和52)年、東宝で撮った「HOUSE ハウス」である。
1982(昭和57)年、故郷尾道を舞台に「転校生」を発表。
翌1983(昭和58)年にも原田知世の映画デビュー作「時をかける少女」を尾道などで撮影。

この2本と1985(昭和60)年の「さびしんぼう」が「尾道三部作」とよばれ、多くのファンが尾道を訪れる契機となった。
以後「姉妹坂」「漂流教室」といった娯楽大作から福永武彦原作の「廃市」のような芸術色の強い作品まで幅広い映画を精力的に発表。
三部作の後も「ふたり」など多くの作品を尾道で撮った。
尾道以外にも大分県・臼杵、佐賀県・唐津、長野県、北海道・小樽といった地方都市の風景を魅力的に撮り、地域振興の映画の流行を生んだ。
2012(平成24)年「この空の花 長岡花火物語」は太平洋戦争下の空襲と中越地震、東日本大震災を、フィクションドキュメンタイーをないまぜにした実験作を作り話題になった。
最後の作品は「海辺の映画館—キネマの玉手箱」。

才能豊かな現代映画のパイオニア
私が大林宣彦監督の高く評価するのは、常に先き先を見据え挑戦し、その全てがパイオニアとしての道を開いた事である。
その1、大学の在学中から、まだ高額で広く普及する前に8㎜カメラを購入し、
ドキュメンタリー映画「青春・雲」「絵の中の少女」などの実験映画を作り、それを学園祭や一般上映までしていたことである。
これは並大抵の者には出来ない。自分だけの映画を創ることに、強い意思と信念があったればこそである。
後にこうした流れから自主上映出身者として、高林陽一、大森一樹、森田芳光らの監督が輩出された。
ヒット作量産でCM界の巨匠に!
その2、26歳でCMデレクターになってからの活躍は脅威である。
1960年代コマーシャルは日本の高度経済成長を下支えしていた。
しかし、テレビメディアもCMも映画界からはまだ評価されていない時代で、大林はこの世界で世間をアットいわせる話題作量産した。
それがまた流行語となり商品も売れた。
60~70歳代の人にはお馴染みの、チャールズ・ブロンソンの「マンダム」。
ソフィア・ローレンの「ホンダ・ロードパル」、このCMではラッタッタのかけ声が流行った。
カトリーヌ・ドヌーブの「ラックス化粧品」、1974(昭和49)年山口百恵・三浦友和が初めて出逢ったという「グリコ・アーモンドチョコレート」や、「レナウン・ワンサカ娘」、高峰三枝子・上原謙の「国鉄フルムーン」、など、そのヒット作品は3,000本を数えた。
まさに「CM界の巨匠」と言われた由縁である。
大林はこの期間CM撮影に外国を使い、有名俳優を多く登用し、映画製作の地ならしをしたと言って良い。
後に、CMで得た資金で「EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ」のアングラ映画を撮り話題になった。
他業種から初めての映画監督
その3、映画製作は従来、映画会社に所属し、助監督から勉強し監督になるのが普通のコースだった。
このシステムを大林は覆した。
その第1作が東宝で撮った「HOUSE ハウス」である。
この作品、当時の東宝助監督たちが猛反発したため、製作発表から2年間塩漬けにされた。
しかし大林は頑張って製作に漕ぎ着け、完成すると自ら宣伝を買って出てCM、ラジオ、テレビ、広告業界の仲間達を動かし走り回った。
作品は若者に歓迎された。
これが、映画界に助監督経験なし、自主上映出身、CMデレクター出身という新たな流れをうみだした。新しい映画監督の誕生である。
アイドル映画のパイオニア
その4、以後、映画監督として商業映画を撮ることになるが、
なんと言っても大林が名を馳せたのは新人アイドル・新人女優を主役にした映画作りである。
それを決定づけたのが、1981(昭和56)年、角川映画・薬師丸ひろ子主演の「ねらわれた学園」である。

この映画がアイドル映画の開幕を告げる作品となった。
この作品、大ヒットで薬師丸ひろ子が大スターに躍り出た記念すべき作品で有る。
大林はこれ以降「時をかける少女」「天国に一いちばん近い島」「彼のオートバイ彼女の島」などで角川映画最多登板監督になった。

映画制作には厳しく、アイドルを度々脱がせることも多く「脱がせ屋」との異名も取ったが、長い自主映画製作キャリアから培ったスキルは撮影、編集、演技のみならず、作曲や演奏にも及び「アイドル映画」の皮を被った「作家映画」とみる評論家も多い。
高齢ながらデジタル撮影にも挑戦!
その5、後年大林は、映画産業のデジタル化撮影でも「映画作家」ぶりを充分発揮した。
濃厚なフィルム世代である大林は、後ろ向きにフィルムへの郷愁に走るのではなく、むしろデジタル化で新しい発見をし、名作を撮った。
2007(平成19)年「22才の別れLycoris葉見ず花見ず物語」、2008(平成20)年「その日のまえに」、2017(平成29)年「花筐/HANAGATAMI」などである。
大林は8ミリ、16ミリ、35ミリ、デジタルという表現の形式を全て経験した、最初で最後の「映画作家」だといえる。
地方映画祭へも積極的に参加
その6、これは余り知られていないが、
大林は全国各地で開催される「地方映画祭」に招待されると必ず参加していた。
またマニアックなファンの集まりにも嫌がらず参加し、映画の魅力を力説した。とにかく映画ファンを大事にしていた事で知られた監督である。
後年は「映画は難しい哲学を分かりやすく、風化させないためのエンターテインメント。
戦争や震災の恐怖は忘れられていくが、映画に残すとよみがえる。過去から学ばなければ未来の平和は作り得ない。
それが映画の力」と説き、「戦争で亡くなった人を忘れないことが、平和をつくる方法。
そういう映画を作ってきた」と語る。亡くなるまで若い人や世間に「絶対的な戦争反対」と叫んでいた。
そうしたメッセージいっぱいの遺作品「海辺の映画館—キネマの玉手箱」が2020(令和2)年4月10日公開された。
現在上映中でお薦めしたい作品である。 大林宣彦監督のご冥福を祈り合掌!

