
1963(昭和33)年

川島くらいオーソドックスを嫌い、アブノーマルを愛した男はいない。
日本の映画史に残る「幕末太陽伝」(主演:フランキー堺)を撮った、監督・川島雄三が1963(昭和33)年6月12日急死した。
川島は前の晩、銀座のバー「エスポワール」で水割りを三杯ほど飲んで帰り、翌朝、いきなりアパートで死体として発見された。心臓がまるで弱っていたのだ。
彼が最後まで克服できなかった病は「筋萎縮性側側索硬化症」(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)である。この病気は重篤な筋肉の萎縮と筋力低下をきたす神経変性疾患で、治癒のための有効な治療法は現在確立されていない。特定疾患に認定された指定難病である。
川島が亡くなったときは手足が不自由で、モモなども普通の健康な男の腕ぐらいにやせ衰えていた。肺も悪くなっていたし、不眠症におちいってもいた。酒、仕事、睡眠薬で自らの身体を完全に燃焼しきり、こときれていたのだ。なんとも壮絶な死である。

川島くらいオーソドックスを嫌い、アブノーマルを愛した男はいない。2㍑ぐらいの酒を空け、げてもの屋を食いあさった。
映画では珍奇なシーンが続出した。便器を質入れする奴が出てきたり、マラソン選手のシャツに花札のマークを縫い付けたりした。コマ落とし、ストップモーションなど、川島は、予期しない箇所でこうした方法を用い、戯作風な、ざれ方をした。
便所も良く撮った。「雁の寺」では、高見国一の小坊主が汲み取りをするシーンで始まる。客席へ向けてヌーッとヒシャクが飛びこんでくる。目の前にすくい上げたフン尿のクローズ・アップが出て来る。若尾文子は3回も便所に入らされた。
「幕末太陽伝で」でも石原裕次郎とフランキー堺が連れ小便させられた。南田洋子、左幸子にいたっては、便所の中にしゃがみ、板仕切りで向かい合って口論するシーンがあった。生理的に力みながら心理的に逆上しあって行くこのシーンは結局カットになったが、二女優を延々としゃがませ、ケンカをさせて、川島はニヤニヤと楽しんだ。
大学卒業後、松竹大船撮影所監督部へ入社。腰が不自由なので大船撮影所前の松尾食堂二階に下宿していたこともある。食堂の娘との縁談話が持ち上がったが、子供が作れない身体であることを理由に断っている。その後は家を持たず浅草や新宿など、都内の行きつけの宿を家替わりに泊り歩いた。番匠義彰監督のアパートに移住んだこともある。
食料事情の悪いころで、川島はフィルムの空きカンで米を炊いたりしていた。それから突如姿を消し、ドヤ街を転々とした。日活に移ってからは新宿の「ととやホテル」に落ち着くが、泥酔した彼を、当時助監督だった今村昌平がよくおぶって運びあげた。
なにせ、夜ごとスタッフと飲み明かす日々を送り、飲み代は当時の金で毎月50万円に達した。助監督の給料が1万円の時代に5万円の舶来洋服を着ていた。
そんな破壊型の川島も死ぬ三年前、銀座の小料理屋「菊川」で働く中村八重司にほれ込み、当時高級住宅だった港区芝の日活アパートに世帯を持ち、家具を整えたりしている。八重司は間もなく妊娠したが、川島は出産を許さなかった。八重司は死んだ母にそっくりだった。身体が不自由なせいかマスコミ関係の訪問をテレくさがり、特に写真を撮られるのを嫌った。
川島雄三の生い立ちと映画作法
川島雄三は1918(大正7)年2月7日、青森県むつ市生れ。家は代々伝わる酒屋で、父・徳三、母・ヨシの三男として生まれた。母は川島が5歳のとき死亡。その後は義母に育てられた。現・青森県立野辺地高等学校を卒業後、明治大学専門部文芸家に入学。1938(昭和13)年松竹大船撮影所監督部へ入社。2000人中8人の採用だったので優秀だった。島津保次郎、吉村公三郎、小津安二郎、木下恵介らの助監督を経て、1944(昭和19)年「還って来た男」で監督デビュー。松竹ではコメディ映画を多く撮った。
1955(昭和30)年製作を再開した日活に移籍。以後、数々の名作を撮った。
川島を良く知る今村昌平監督は「川島は故郷でいまわしいものがあったに違いない。映画狂になることで故郷に反逆し型となった」という。組織的な抵抗を組んだり、理論的に体系づけたりすることが嫌いだった。作品は、軽妙な都会的風俗喜劇から、奇妙な戯作風意識の濃厚な重喜劇、あるいは叙情的なメロドラマから重厚な陰影に富んだ人間劇まで、複雑多義にわたった。一筋縄では集約しがたいものがあった。
通夜の客はそうそうたる顔ぶれが揃い賑やかだった。誰もが川島の死をいたみ、生前の奇行の数々を想い出し語った。享年45歳。壮絶な生き方だったし、死に方だった。
主な監督作品は「飢える魂」「幕末太陽伝」「暖簾」「花影」「雁の寺」「青べか物語」などがある。

