
1955(昭和30)年〜1965(昭和40)年
テレビ普及で映画館激減
1965(昭和40)年代に入ったころ、映画界はなりふりをかまっていられない程、絶体絶命ともいえるぐらい、極端な不況に悩まされていた。
映画の人気が史上最高といわれた1958(昭和33)年、国民は1年間に、1人当たり12回あまり映画を見ていた。これは、寝たきり老人から乳幼児までを含めての平均的な数字だから、映画ファンは、それこそ年間30本くらい見ていた計算になる。
それほど絶対的に人気のあった映画なのに、そのわずか7年後の、この年、国民は年平均3回位しか映画を見なくなった。

全盛期の62%まで減った
映画館も激減した。1960(昭和35)年、全国に7,457館有ったのが、この年には4,649館。実に全盛期の62%まで減った。以後、この傾向が続いて行く。
映画界は必死になり、起死回生の手段をあれこれ模索していた。第一の敵はテレビであった。1953(昭和28)年2月1日、NHKは日本最初のテレビ放送を開始する。

映画はまだテレビを恐れてはいなかった
当時の視聴者はわずか1,093世帯。1台の受像機が20万円もしたので、多くの市民は、駅前広場や電機店の店頭、あるいは公園の中に設けられた宣伝用の受像機の前に群がって、珍しそうにテレビを見物していた。このとき映画はまだテレビを恐れてはいなかった。
民放テレビの先峰として、同じ年の8月に日本テレビ(NTV)が開局。次いで1955(昭和30)年4月からは、東京放送(TBS)が開局し、その普及の波はとどまるところを知らなかった。
テレビ界の目標は、「皇太子の御成婚と、東京オリンピックをお茶の間で」が目標であった。御成婚直前の1959(昭和34)年2月、日本教育テレビ(NET)、フジテレビ(FTV)がこの戦列に加わり、さらに4万円代の受像機が登場、テレビは増産に次ぐ増産で当初の予想をはるかに上回る急成長ぶりだった。
映画界がテレビ界に対して取った対策は、製作や輸入業者のテレビ事業に対する非協力方針、フィルムの供給や俳優の出演拒否などである。それでも映画関係者は、1959(昭和34)年の皇太子御成婚ニュースで、テレビ普及は一応の限界に達したと考えて楽観視し、首都圏では劇場ビルの新設など、拡張を積極的に行なっていた。
映画はテレビと共存する道を選択する。
しかしカラーテレビの本放送が始まり、映画はテレビを、これ以上敵対視することができず、自滅より共存する道を選択する。
人々は家でテレビにかじりつき、外ではボウリング、やれゴルフだと、高度成長時代の恩恵を享受していた。しかし、高度成長は、映画界には恩恵が無かった。

