
1955(昭和30)年〜1965(昭和40)年
〈ベトナム戦争〉
ベトナム戦争が泥沼化し世界が混迷していた。1965(昭和40)年2月、米軍が北ベトナムに空爆を開始。米国の軍事介入が本格化した。この北爆により、日本でもようやく反戦の機運が盛り上がった。
そんな中、4月24日、日本の反戦を担った「べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」が組織された。哲学者・鶴見俊介、政治学者・高畠道敏などを中心に集った「個人原理」にもとづいた組織で、多岐にわたる反戦活動をした。代表は小田実が務め、市民運動に大きな影響を与えた。
〈野村克也が三冠王に〉
プロ野球パ・リーグ、南海ホークスの野村克也捕手が、この年のシーズンで、打率3割1分9厘6毛、打点110、本塁打42本の成績で、三冠王を獲得した。1938(昭和13)年の中嶋治康(巨人)以来27年ぶり2人目、戦後初の三冠王誕生だった。
野村は1954(昭和29)年、テスト生としてプロ入りしたが、1年目はわずか九試合の出場にとどまり、2年目は一軍での出場はなかった。しかし、3年目に正捕手の座をつかむと強打者として鳴らし始め、1965(昭和40)年のシーズンは、本塁打王5年、打点王4年連続しての獲得だった。
また、9月11日の近鉄戦では当時の歴代通算1位に躍り出る313本の本塁打も放った。野村はとにかく良く打った。当時、「東映フライヤーズ」(現・北海道日本ハム)は、1962(昭和37)年、阪神と日本シリーズを戦い優勝していた。
筆者が入社したのが、2年後の1964(昭和39)年。この時はまだ強かった。東映のフランチャイズは後楽園球場。試合の日は、勤務が終わると応援のため後楽園球場へは良く足を運んだ。しかし、南海戦だけは、リードしていても、野村のホームランでいつも負けていた記憶しかない。
敵ながら、その凄さに驚いた事を覚えている。一緒に観戦していた、あまり野球を知らない妻まで、野村がバッターボックスに入るとホームランか、ヒットを打つものと信じていて、ゴロや三振をすると不思議がっていた。
当時、東映の監督は水原弘、選手に張本勲、大杉勝男、大下剛史、毒島章、土橋正幸、怪童・尾崎行雄などがいた。南海では投手の杉浦忠が活躍していた時である。

〈その他の出来事〉
4月にスタートした「ザ・ガードマン」(TBS系)は視聴率が40%を越える人気となり、その後7年近く、350回にわたって放送された。
11月17日、日本のプロ野球では初めての新人選手選抜会議、通称ドラフト会議が行われた。有力選手獲得のために年々高騰する契約金に歯止めをかけることと、戦力均等が主な目的だった。
巷ではベンチャーズとエレキブームが起き、テレビの「11PM」やラジオの「オールナイト・ニッポン」などの深夜放送の時代が来ていた。
にんじんくらぶ「怪談」で倒産
1954(昭和29)年、女優の岸恵子、久我美子、有馬稲子の3人を中心に結成された、にんじんくらぶは「胸より胸に」「人間の条件」「もず」「からみ合い」「お吟さま」「裸体」「乾いた花」などの映画を撮っていた。1965(昭和40)年、大作に挑んだ。
ラフカディオ・ハーン原作「怪談」である。ハーンの連作から選んだ4編「黒髪」「雪女」「耳なし芳一の話」「茶碗の中」を水木洋子が脚色。小林正樹監督が美しく幻想的に映像化した。

しかし、映画化は最初から困難を極めた。各社からスタジオ使用を敬遠され、京都・宇治の巨大ガレージを借りて撮影するなど、スタジオ費や美術費などの経費が嵩んだ。
映画は完成し、1965(昭和40)年1月6日公開された。カンヌ国祭映画祭で審査員特別賞を受賞、キネマ旬報ベストテン二位など高い評価を得た。しかし、3億5千万円の製作費に対し、配給収入が2億3千万円だった。結果、1億2千万円の赤字を計上し、「にんじんくらぶ」は倒産する。
元々、にんじんくらぶは、映画界の五社協定に拘束されず、自由な俳優活動を求める人のクラブだった。それが、映画製作に乗り出したことで、つまずいた。倒産した時には、俳優を20人以上抱える大所帯になっていた。まさに「怪談」は独立プロの難しさを象徴する映画になった。

