
1955(昭和30)年〜1965(昭和40)年
吉永小百合「愛と死をみつめて」一位
1964(昭和39)年の興収ベストテンは、①愛と死をみつめて(日活)、②鮫(東映)、③赤いハンカチ(日活)、④越後つついし親不知(東映)、⑤日本侠客伝(東映)、⑥香華(松竹)、⑦宮本武蔵・一乗寺の決斗(東映)、⑧喜劇・駅前怪談(東宝)、⑨喜劇・駅前天神(東宝)、⑩白日夢(松竹)となっている。

特筆すべきは、「愛と死をみつめて」(監督・斎藤武一)がダントツの1位だった。併せて東映が1本立て興行「越後つついし親不知」(監督・今井正)を成功させたことだ。
三國連太郎が佐久間良子を雪の中で強姦するシーンがポスターになり、題名をもじって「なんとエッチで恥知らず」などと揶揄されたが、日本映画も1本立てで上映出来る事を証明した。
更に東映はこの年「日本侠客伝」(監督・マキノ雅弘)が大入り。ヤクザ映画が大量生産される下地を作った。
映画「愛と死をみつめて」大ヒット
「愛と死をみつめて」(著者・大島みち子、河野実)は、1963(昭和38)年に大和書房から出版され、160万部のベストセラーになっていた。
物語は、兵庫県立西脇高等学校に通うミコ(吉永小百合)が、顔に軟骨肉腫ができる難病に冒されて阪大病院に入院する。その同じ病棟で長野県出身の浪人学生マコ(浜田光夫)と出会う。
お互いの年も同じ18歳で意気投合し、文通を始める。その後、ミコは同志社大学、マコは中央大学へ進学。文通は途切れず、ミコの病気が再発して再入院した後も、マコは大阪でアルバイトをして、ミコを励ます。
夏休みが終わって東京へ戻ったマコとの文通が、ミコの闘病生活の大きな支えになっていた。マコはその後、アルバイトをして長距離電話で励したり、旅費を工面して阪大病院を訪れる。2人の愛は深まるばかり。しかしミコは手術で顔の半分を失い、更に病気は悪化していく。
そしてマコ22歳の誕生日の前日、自らのメモリアルデーを刻んで、この世を去って行く。この作品、日活配給で9月19日公開。若者を中心に初日から、お客が詰めかけ大ヒットになった。東京オリンピック開催の20日前である。

歌「愛と死をみつめて」レコード大賞
歌「愛と死をみつめて」(作詞・大矢弘子、作曲・土田啓四郎)は、青山和子が歌い、これも大ヒットした。歌はこの年の第6回日本レコード大賞を受賞した。山口百恵を世に出した酒井正利の第1回プロデユース作品でもある。
主演した吉永小百合はこれが代表作で、これ以降、吉永作品が興収ベストワンに入った作品は無い。吉永、唯一のヒット作品である。原作に頼るところが多いとはいえ、吉永小百合の知名度は、さらに上がった。
吉永は1959(昭和34)年「朝を呼ぶ口笛」(松竹)でデビュー以来、日活で1960(昭和35)年「ガラスの中の少女」、1962(昭和37)年「キューポラのある街」「若い人」1963(昭和38)年「青い山脈」「伊豆の踊子」、と出演して来たが、この作品で青春スターとしての地位を盤石な物にした。映画界デビューして5年目。19歳の時である。
ニシン場が舞台「ジャコ萬と鉄」
1964(昭和39)年2月8日公開の「ジャコ萬と鉄」は、北海道積丹郡積丹町ので、秋から冬にかけて撮影が行われた。陸の孤島と呼ばれた島武意は、交通の便が悪い僻地。ロケ隊は俳優の移動などに苦労し、交通はもっぱら船を利用した。
物語は、終戦間もない積丹半島の早春、ニシンの季節を迎え、樺太帰りのジャコ万(丹波哲郎)が復讐のため、鉄(高倉健)の父・九兵衛(山形勲)を狙う。
ニシン場を舞台にした男の群像劇。谷口千吉監督の名作「ジャコ万と鉄」(‘49)を、同じ脚本で深作欣二監督がリメイク。北海道のニシン漁期を舞台にしている、片目の無法者ジャコ萬と網元の息子で、弱い漁夫たちを助けようとする鉄との対決を、深作監督はダイナミックに描いている。高倉が片想いの女性に尽くす、叙情的な場面も秀逸。

ニシン漁ならぬロケ隊景気に沸いた
深作組の撮影隊は、釣り人しか来ない地元に「出漁なみの保証をする」と呼びかけ、地元も漁を休んで協力した。積丹町は、つかのまのニシン漁ならぬロケ隊景気に沸いた。
1949(昭和24)年、同作品を谷口千吉監督が北海道増毛郡増毛町の岩老海岸を中心に撮影している。ニシン漁が盛んな頃なので、ニシン漁の独特の雰囲気が、今に残る貴重な資料だ。このときは鉄が三船敏郎、ジャコ万が月形龍之介だった。
また、この「ジャコ萬と鉄」は高倉健と深作監督が組んだ、数少ない作品で、これ以降は1964(昭和39)年8月公開の「狼と豚と人間」。客演した「カミカゼ野郎・真昼の決闘」以外、高倉と一緒した作品は無い。2人が同じ東映所属なのに珍しいケース。両者はどうも波長が合わなかったようだ。

