
1955(昭和30)年〜1965(昭和40)年
〈新潟を襲った大地震〉
6月16日午後一時過ぎ、新潟沖の粟島付近を震源としたマグニチュード7.5の大地震が発生した。被害は新潟市を中心に、秋田、山形など日本海側9県に及び、死者26人、家屋全壊1,960戸という甚大なものとなった。
地震と同時に昭和石油新潟製油所など6カ所で出火、ほどなく発生した余震によって次々と石油タンクが爆発した。午後2時45分には、津波が沿岸部を襲い、家屋の倒壊、住宅への浸水、田畑の流失と、追い打ちをかけた。
また、鉄筋コンクリートの建物の多くが傾いたり沈んだりし、その原因となった液状化現象が注目された。石油タンクの火災がようやく収まったのは半月後のことだった。都市や石油基地での火災の恐ろしさを示した。
〈オリンピック・東京大会〉
五輪に向けて国が変貌して行った。8月1日、首都高速道路、1号線と4号線が開通。9月17日、東京の浜松町〜羽田空港間に東京モノレールが開業。10月1日、夢の超特急・東海道新幹線開業、東京〜大阪間が四時間で結ばれた。これは全て、「第18回オリンピック東京大会」に目標を置いた大改造であった。
10月10日、青空のもと、オリンピック東京大会が始まった。戦争により幻に終わった東京大会から数えること24年、国民の悲願だったスポーツの祭典は、日本の持てる全ての熱意と技術が注がれた。競技場には94の国と地域から5,558人の選手が参加。24日までの15日間に20の競技で熱戦を繰り広げた。


重量挙げで三宅義信が金メダルを取ったのを皮切りに、バレーボール女子では東洋の魔女が、男子体操では遠藤幸雄が個人総合優勝。レスリングでは渡辺永武ほか4人が金メダルに輝くなど、日本選手が活躍した。また「東京オリンピック」で、白黒テレビが一気に家庭へ普及し、日本列島は、オリンピック景気に沸いた。まさに近代化へと変革を遂げる年だった。
〈その他の出来事〉
4月6日、NHK総合テレビで人形劇「ひょっこりひょうたん島」が放送開始。視聴率40%を越え、子供たちをテレビの前に釘づけにした。その後、1969(昭和44)年4月4日まで5年間続く。
4月28日に若者のバイブルと呼ばれた「平凡パンチ」(平凡出版刊、現・マガジンハウス)が創刊。この本を媒体にし、若者間でVAN&JUNなどのアイビールックが流行った。
8月6日、異常渇水のため、東京で水不足が深刻になる。都内17区で1日15時間の断水の第四次給水制限を実施。このころ「東京砂漠」の呼称が生まれる。店頭ではポリバケツの売り切れが続出、政府は急遽、埼玉県の利根川から東京へ水を引く治水対策を取った。

