
1966(昭和41)年〜1988(昭和63)
中国で撮影した超大作「敦煌」
この作品は、井上靖が毎日芸術賞を受賞した小説「敦煌」(講談社)の映画化である。映画は、製作・総指揮を取った徳間康快(徳間書店社長)の執念によって完成した。
最初は小林正樹監督が、1963(昭和38)年に立てた企画といわれ、中国のロケの了承を取り付けられず、スタッフ、キャストの交代劇などの紆余曲折があり、頓挫していた。
それを中国と太いパイプを持つ、徳間康快が時間をかけ、忍耐強く頑張り、実現させた。映画化は不可能だとされた作品である。上映が決まったとき、文豪で文化勲章を受章している井上靖も、ただただ感激したと言う。井上が亡くなる3年前である。

総製作費四五億円。延べ10万人のエキストラ
出来上がった作品は中国ロケが生かされ、日本映画史上類を見ない規模になった。総製作費四五億円。延べ10万人のエキストラ。4万頭の馬。5年間に及ぶ製作期間。中国との共同撮影。
どれを取っても日本映画の規格外だった。中国ロケは画面を圧倒。戦闘場面などは、ド迫力で観客を驚かせた。

映画は興収76億5千万円ベストテン1位い
完成した「敦煌」(監督・佐藤純彌)は、1988(昭和63)年6月5日に公開。映画は興収76億5千万円を挙げ、ベストテン1位になった。
物語は宗が支配していた時代の11世紀の中国大陸が舞台。主人公・趙行徳(佐藤浩市)は、科拳の最終試験殿試を受けるため、首都開封にやってきた。しかし、行徳は試験の待ち時間に居眠りをし、受験に失敗する。
失望感のあまり寄る辺もなく開封の街をさまようと、1人の女が「肉」として売られていた。不貞を働いた女だという。女が屠殺されるのを見かねた行徳は、女を殺さず「買い取る」ことにした。行徳のおかげで命拾いをした女は1枚の布きれを渡す。
そこには見たことも無い文字が書かれていた。西夏の文字だという。行徳は西夏文字を学びたいと思い、西夏へと旅立つ。途中、ひょんなことから西夏の傭兵、朱王礼(西田敏行)に助けられる。
そこで漢人部隊の書記となるが、時代の波にのまれ様々な事件と遭遇する。侵略が繰り返される日々の中で、全てを失った行徳は「敦煌」の文化遺産を戦乱から守る事を決意する。
「敦煌」は砂漠に生きる人々、文化遺産の大切さを描いた、一大スぺクタクル大作である。西田敏行が好演した。作品は143分の長尺で、大映が製作し東宝が配給した。作品は第12回日本アカデミー賞で、最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀主演男優賞(西田敏行)、最優秀照明賞、最優秀美術賞、最優秀録音賞、特別企画賞などを受賞した。
1989(昭和64)年1月・昭和が終わる
〈昭和天皇崩御〉
1月1日、体内出血した病床の天皇に、2日朝までに計1,400ccを輸血。1月7日午前6時33分、長く過酷な闘病を続けていた昭和天皇が逝去した。この日未明から心臓が急速に弱まり、強心剤でも回復せず、瞳孔が開いた。
午前5時40分、皇太子一家が皇居に駆けつけた。良子皇后(香淳皇后)が最後の対面をしたあと、皇族が病床を囲み、皇太子妃が足をさするなか崩御された。
新しい元号は「平成」と発表される
戦前は「統治権の総攬」として、戦後は「国民統合の象徴」として63年余、在位し続けた昭和天皇は、87歳の生涯を閉じた。皇太子明仁が直ちに即位。
午後2時半過ぎ、政府は小渕恵三官房長官から、新しい元号は「平成」と発表される。昭和から平成へと時代が動いた。平成の元号は8日施行した。

