
日活の復活で慌てた5社
明治45年に創立され、戦時中から製作を中止していた日活が、1952(昭和27)年に映画製作を再開するというので、業界は大混乱になった。
スターが芝居らしいことをして、適当なストリーが有れば、客がわんさと入った時代である。興行界の怪物といわれた堀久作がだまっているわけがなかった。堀久作は「日活で映画製作を再開する!」とわめいた。
慌てたのは五社(松竹、東宝、大映、東映、新東宝)である。映画会社が手持ちスターを抱えこんで製作していた時である。
俳優やスタッフの引き抜きに戦々恐々だった。しかし、スターを全部独占するわけにはいかなかった。五社の手からポロポロとスターは抜け落ちたし、自分から進んで日活に飛びこんで来る俳優も多かった。
日活の給料はこれまでの倍
なにしろ日活は9億円の資本を15億円に増資して、出演料は、これまでの倍というのだから、誰だって日活に憧れた。
3月撮影所が完成。製作第一作は、滝沢英輔監督「国定忠治」(主演/辰巳柳太郎)で、昭和29年6月29日公開した。新国劇のメンバーが出演した新しい時代劇だった。
しかし堀久作社長が考えていたより作品はヒットしなかった。というのも、この忠治いっこうに強くなかったからである。主役のスターが登場すれば、バッタ、バッタと人を斬る、猛然と強い忠治を観慣れている観客は、泥だらけ、ハナ水と涙でボロンボロンの忠治に肩透かしを食ってしまったのだ。
興行にも問題があった。今まで日活系の劇場ではカラー映画の洋画を上映していた。それがいきなり、泥臭い時代劇の上映である。観客が遠ざかってしまった。
映画界に新鮮な日活旋風を起こし、義理と人情とナニワブシで縛られていた既存の「カツドウ屋」の目をさようとしたが、その覚せい剤にはならなかった。
「日活へ入ったら、なんでも好きなことやらせてくれるぜ」なんていう評判が、ネコもシヤクシも日活へなびかせたが、その思惑が上手く行かなかった。
当時、坂東好太郎が京都から日活入りしたが、この時、東京駅に「歓迎・坂東好太郎」というノボリ旗を数十本持って出迎えられた。このノボリ旗を持って出迎えたのが日活宣伝部のメンバーで、実は彼らも新入りで三カ月足らずの青年だった。
しかし、この宣伝マン、大学卒の初任給が平均1万円のこの時、彼らは交際費が1万円認められていたというから、日活も豪気であった。


日活の引抜き対して五社協定が結ばれる
俳優、スタッフの引き抜きでは、松竹から筆頭プロデユーサー山本武が川島雄三監督、
月丘夢路、北原三枝などを引き連れて日活入りした。
併せて三國連太郎、フランキー堺、森繁久彌、水島道太郎、三橋達也、小林桂樹、南田洋子、新珠三千代、芦川いづみも日活に入った。これらのスターのギャラは全て100万円の大台を上回って契約された。
当時の俳優ギャラは250万円台が高峰秀子、美空ひばり、鶴田浩二。200万円台が長谷川一夫、大木実。150万円台が片岡千恵蔵、市川歌右衛門、原節子などで、中村錦之助はまだ90万円のギャラだった。
しかし、日活の引き抜き騒動にあった五社は、五社協定を結び、俳優、スタッフの引き抜きを禁止し、自社の俳優のギャラ・アップで防戦するなどで対策を図った。そのため所属俳優はいきなり50万円~100万円アップのギャラを会社側から提示され喜んで残った者が多い。俳優は思わぬところで日活のおこぼれにあやかり、ホクホクだったことは言うまでもない。
日活が芽を出すまでに潰そうとした五社側は、堀久作の“怪物的手腕”に追いまくられてしまった。
五社協定に対して日活は独自スターを発掘していく
つまりゼニの力だが、日活作戦の上手かった点は、俳優から裏方まで契約が1年に限った事である。用がなくなれば1年間でポイすることを最初から考えていた。堀久作らしい手腕である。
その後、日活は独自にスターを発掘し、石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、二谷英明、浅丘ルリ子、吉永小百合などで一時代を築いていく。

