
1955(昭和30)年〜1965(昭和40)年
三船、黒澤明監督とのコンビを解消
三船は「赤ひげ」を最後に黒澤明監督の作品には出ていない。何故コンビを解消したのか、疑問が残るところ。三船とのコンビを解消した後の、黒澤作品は精彩が無くなっている。
「三船無くして黒澤無し」と言われるほど黒澤作品には欠かせない存在で、コンビは16年間も続いた。現代劇、時代劇を問わない黒澤映画の顔だった。
現場や俳優にうるさい黒澤が「三船を、批判的な目で見ることは無かった」という。黒澤は三船の死後「三船君、本当によくやったなあ、と褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません」とコメントしている。

生涯170本以上の映画に出演
三船は生涯170本以上の映画に出演。海外作品も14本ある。三船の主な代表作は、黒澤作品を除くと、「ジャコ萬と鉄」「西鶴一代女」「宮本武蔵」「柳生武芸帳」「無法松の一生」「日本誕生」「五十万人の遺産」「上意打ち 拝領妻始末」「日本のいちばん長い日」「黒部の太陽」「連合艦隊司令長官・山本五十六」「風林火山」「日本海大海戦 海ゆかば」「千利休本覺坊遺文」。外国映画では「価値ある男」「レッド・サン」「ミッドウェイ」「将軍」「1941」「グランプリ」などがある。
日本映画産業の再興のため
1962(昭和37)年、日本映画産業の再興のためとして、三船プロダクションを設立。40人近くのスタッフ俳優を抱えて出発した。当時製作を縮小していた東宝への作品を供給する役割も担い「五十万人の遺産」「侍」「血と砂」「怒涛一万哩」「奇岩城の冒険」「上意討ち 拝領妻始末」「黒部の太陽」「風林火山」「新選組」「待ち伏せ」「二人だけの朝」「犬笛」等を製作し、プロダクションは順調な経営をしていた。
その後、1966(昭和41)年、東京都世田谷区成城に時代劇を撮影できるオープンセット付きの撮影所を建設する。最終的に、3,800坪、社員、契約社員300人以上に膨れあがった。人員増は東宝が製作を中止したスタッフの受け皿的な要素もあった。


経営上の内紛が勃発
しかし、三船プロも1979(昭和54)年、経営上の内紛が勃発した。専務の田中寿一が俳優、スタッフを引き連れて、半ば強引に独立する。俳優の竜雷太、多岐川裕美、勝野洋、竹下景子、中野良子等を含め約半数が去った。
残ったのは伊豆肇、夏木陽介、かたせ梨乃など少なかった。この分裂劇で三船のプライバシーまで攻撃され、過激な報道もあり、三船プロダクションは大打撃を受ける。
それでも、プロダクションと撮影所を縮小し、関東で時代劇が撮れる撮影所として多くのテレビ番組を制作した。後年、三船はテレビ出演も多く「五人の野武士」「大忠臣蔵」「荒野の素浪人」「球形の荒野」など、シリーズ物を含め50本以上に出演した。
同期の女優・吉峰幸子と結婚
私生活では1950(昭和25)年、東宝第1期ニューフェイス同期の女優・吉峰幸子と結婚。しかし、三船の酒乱に悩まされた幸子は三船を家から追い出してしまう。三船が離婚しようとしたが幸子は拒否。その間、三船は喜多川美圭と交際し一女(現・タレント三船美佳)を設ける。
1992(平成4)年、心筋梗塞で倒れたのをきっかけに、三船は喜多川美佳との関係を解消して、看病を希望した幸子の元へ戻る。
三船敏郎77歳の生涯を閉じる
それ以降、幸子は体調のすぐれない三船を支え、円満な夫婦関係であったと言う。1995(平成7)年、幸子が死亡し、45年間の結婚の幕を閉じた。それから2年後の1997(平成九)年12月24日、三船は妻の後を追うように、多臓器不全で77歳の生涯を閉じる。
生前受けた受賞歴は、芸術選奨、勲三等瑞宝章、紫綬褒賞、川喜多賞、芸術文化勲章、ロスアンゼルス市名誉市民、カリフオルニア大学ロスアンゼルス校名誉学位、ブルーリボン賞(6度も取っている)など。三船を悪く言う人は居ない。人格者で撮影時間に遅れたことは無く、スタッフにも声を掛けるなど気さくな一面もあった。
本当にやさしくて良い人なんですけどねえ
しかし、酒癖が悪かった。とにかく酒を飲むと人格が変った。酔ってタクシー内で俳優の安藤昇(元・安藤組の親分)に殴り掛かると逆に車外へ蹴飛ばされ、更にボコボコに殴りまくられ完全に伸びてしまう。翌日、顔が派手に腫れたままで、撮影にならなかった。
また奇行に走る事もあった。夜遅くに家の周辺を、奇声を上げて走ったり、黒澤監督の家の周りをバイクで暴走し、「黒澤のバカヤロ〜」と叫んだり、中には映画用の小道具である槍を持ち出して、石原裕次郎の家に果し合いにいったりという、冗談のようなエピソードもある。女優の浜美枝は「お酒さえ入らなければ、本当にやさしくて良い人なんですけどねえ」と語っている。

