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日本映画100年史

本【日本映画100年史】をリアルタイムで加筆していく、ライブブックブログ!

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東京巣鴨に有った大都映画撮影所。

2020.01.08 by 西川昭幸

1933(昭和8)年から1942(昭和17)年まで、東京都豊島区西巣鴨に「大都映画株式会社」があった。1928年設立された河合映画製作所を前身に、1933年(昭和8年)6月、土木・建築業界の実力者で当時、東京府会議員でもあった河合徳三郎がそれまで経営していた河合映画製作社を発展的に解消して、新たに大都映画を設立した。撮影所は河合映画以来引き続き巣鴨撮影所を使用した。

新興の「大都映画」は低予算の娯楽作品を大量に製作し、安価な入場料で当時の大手映画会社に対抗した。1942年に戦時統合で新興キネマと日活(製作部門)の3社が合併して後の大日本映画(大映)となって、大都映画はその歴史を閉じた。しかし、その短い10年間の期間に、大都映画は観客の支持と、徹底した低コスト製作もあいまって、最後まで一度も経営危機にはならなかった。

大都映画の製作方針は、完全娯楽に徹することであった。観客をハラハラさせたり、泣かせたりすることに特化し、1年間に100本以上もの映画を大量生産した。メジャー他社や評論家からは粗製乱造及び内容が無いなどと酷評されたが、観衆からは理屈抜きに面白い大都映画は圧倒的に支持された。

創始者の河合徳三郎は「楽しく、安く、速く」をコンセプトに、敢えて高尚を狙わず、上品振ろうとはせず、所謂、批評家と称する人々には、粗製乱造と言われようが、低級と言われようとも意に介さず、製作方針に更改を加えようとしなかった。他の会社からは「B級三流」と揶揄されながらも、河合徳三郎は「女給と工員と、丁稚や子守っ子たちに喜ばれればいい」と明言してはばからなかった。

そこには余裕のある月給取りや学者や学生でなく、小銭をかき集めて映画館に駆けつけて、日々の暮らしの疲れを映画の楽しさや、面白さで吹き飛ばそうとする貧しい人々が、大都映画の観客であることを、彼自身が求めたからである。

そのため松竹の映画館が50銭の入場料ならば大都は30銭として、子どもは5銭であったという。毎週2本立てで封切り、翌週はまた違う新作を上映する。1950年代後半から60年代前半に東映などが行った、ログラムピクチャーを戦前の時代にすでに大都映画が行っていたことになる。河合映画から大都映画に変わった1933年以降毎年の製作本数は毎年、100本を下る事が無かった。

1937(昭和12)年の日中戦争時には最大の110本を製作していた。これは1系統としては最大の製作本数である(1960~1961年の東映は2系統でこの数字を上回り系統としては最高)。単純計算すると3日間で1本の映画が量産されたことになる。そして河合映画から通算して15年間で総製作本数は1,294本(1,325本という説もある)に達した、驚異の撮影所であった。余り知られていないこの大都映画株式会社、製作された映画フィルムの多くは戦災で焼失して現存していないが、近年地元の巣鴨を中心として、その存在は再評価されている。

大都映画の珍優・大山デブ子

この大都映画で沢山の俳優が活躍したが、その中でも「名物珍優」と知られた人気女優・大山デブ子がいた。その大柄(体重90㌔)なスタイルは、美男美女が持てる映画界で異彩を放っていた。このヘビー級の大山を喜劇作品に出演させ「主演スター」に仕上げたのは、映画の企画にしばしば口出しする、社長の河合徳三郎の功績が大きい。

「大山デブ子」の画像
大山デブ子

この大山デブ子は大正4年生まれ、6歳年上に姉・橘喜久子がいて、むしろ姉の方が河合映画でもスターだった。明治42年大阪生まれの橘喜久子は東京の跡見女学校卒業、松竹下加茂、蒲田、ヤマト映画をへて、昭和3年に河合映画へ入社する。第一作は「女敵愛憎曲」に、妹・大山デブ子と共演した。その後、大山デブ子は姉・喜久子の後を追うように河合映画に入り活躍する。

大岡怪童という巨漢の俳優と共演し、巨漢コンビとして鳴らした。大山デブ子は大柄で、名前の由来通り、八面六臂の活躍し、社名が大都映画になっても、デブ子が登場するだけで観客を沸かせて、三枚目の本領を発揮した。なにせ、大山デブ子がスクリーンに登場するだけで観客は沸き返ったのだから異常な人気だった。また水島道太郎、藤間林太郎などとの共演など作品は多数にのぼった。脇役のみならず主役をこなす、器用な女優だった。

昭和14年、「国士無双」(監督・伊丹万作)の脚本で有名な、脚本家の伊勢野重任が日活から大都映画に移籍してきた。伊勢野は著しく背が高くやせこけていた。彼の念願は太った女性と結婚したいということだった。そのため彼は大山デブ子に憧れ大都に入った。デブ子はデブ子で痩せた人に憧れていた。こんな同士だったから二人の恋が結ばれぬはずがなかった。

結婚の橋渡しは、松山宗三郎が「デブちゃんを貰わないか」と声をかけたといわれる。大山を狙っていた伊勢野は渡りに船と飛びついた。一方大山は「痩せた人に惚れるタイプ」だったので、有名脚本家の申し出にメロメロになった。二人の熱愛は続き、結婚することになった。これに怒ったのが社長の河合徳三郎である。稼ぎ頭女優の結婚は業界ではタブーだった。しかし二人の熱愛は一向に冷めず、昭和13年結婚。撮影所内での披露宴では、のっぽの伊勢野と大柄な大山の生真面目の写真が残っている。その後2人は、昭和16年に大都映画を退社、大山は伊勢野の郷里・松山に落ち着いた。

劇中では男女を掴んでは投げ、ちぎっては投げるという大暴れで観客を大いに笑わせたものだったが、家庭入った大山は良妻賢母の鑑で2人の子供も授かった。伊勢野は散発的にシナリオを書いたが、後年、大山は小料理屋などをひらいていた。2人とも勝気で、伊勢野重任が亡くなり、後を追うように昭和56年、名物女優だった大山デブ子も腎不全で逝去した。66歳だった。今の世、この大山デブ子を知る人が少ない。寂しい限りである。

拙著<美空ひばり最後の真実>が発売中です。

Filed Under: 四方山話, 昭和 Tagged With: 大山デブ子, 大都映画

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著者紹介(西川昭幸)

1941年北海道生まれ。東洋大学社会学部卒。
映画会社勤務などを経て現在、公益社団法人理事。
<主な著作>
「北の映画物語」(北海タイムス社)、
「美空ひばり公式完全データブック 永久保存版」(角川書店)、
「活字の映画館 明治・大正・昭和編」(ダーツ出版)、
「日本映画100年史」(ごま書房新社)、
「美空ひばり最後の真実」(さくら舎)、
「昭和の映画ベスト10、男優・女優・作品」(ごま書房新社)

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