
1966(昭和41)年〜1988(昭和63)
〈さようなら、青函連絡船〉
3月13日、JR津軽海峡線の青函トンネル(全長53.85㌔)が開業。80年の歴史をもつ青函連絡船は廃止。昭和の復興を支えた交通網がまた無くなった。沢山の人に見送られながら羊蹄丸が函館港を出港したのは午後5時。青森まで113㌔最後の航海である。
青函連絡船は貨車と客を1908(明治41)年から北海道の開拓と戦時の石炭運搬の使命を担っていた交通網でもあった。
〈リクルート事件〉
戦後3大疑獄事件の1つに挙げられるリクルート事件が発生した。一地方自治体の助役の汚職から発展し、政界・官界・財界まで巻き込んだこの事件は根が深く、竹下登首相が引退するまでになった。余りにも政界・官界の暗部が浮き彫りになった事件なので、月日を追って見てみよう。


6月18日、神奈川県川崎市の助役が、リクルートから関連会社リクルートコスモスの未公開株を入手し、公開時に売却して1億2,000万円の利益を得たことを朝日新聞がスクープ。助役は20日解職。この事件の調査から大疑獄事件へと発展する。
7月5日、リクルートコスモス未公開株式譲渡問題で、中曽根康弘前首相、安倍晋太郎自民党幹事長、宮澤喜一蔵相の各秘書の関与が判明。6日、竹下登首相の元秘書への株譲渡も判明。同日、江副浩正リクルート会長が辞任。
9月5日、楢崎弥之助・社民連代議士が、リクルートコスモスから2回にわたり贈賄工作があったことを暴露。11月1日、日本テレビがその様子を隠し撮りし、贈賄申し出のシーンを放送。10月19日、東京地検が、リクルート本社、リクルートコスモスを贈賄容疑で一斉捜査。
10月29日、藤波孝生・元内閣官房長官が、秘書名義でリクルートコスモス未公開株、1万2,000株を公開前に譲渡されていたことを認める。31日、真藤恒NTT会長も譲渡を受け売却益を得ていたことが判明。
12月14日、会長辞任。11月2日、高石邦男・前文部事務次官、自民党の浜田卓二郎・外務政務次官、公明党の池田克也代議士など政官、財界人多数への未公開株譲渡が明るみに出る。
11月21日、衆議院リクルート問題調査特別委員会で江副リクルート前会長らの証人喚問。12月9日、宮澤蔵相、リクルート疑惑に関する答弁が再三変わった責任を取って辞任。後任は竹下登首相が兼務。
12月27日、竹下改造内閣発足。30日、リクルートから政治献金を受けていた新法相の長谷川峻辞任。閣僚在任4日は戦後最短だった。
1989(平成元)年4月25日、竹下登首相がリクルート事件をきっかけとする政治不信の責任を取って退陣を表明。捜査の過程でなんと政界の44人に13億円もの金がばらまかれたことがわかった。
〈その他の出来事〉
3月2日、日米両国が、在日米軍基地で働く日本人従業員の人件費を全額日本側が負担する日米特別協定に調印。日本の基地負担が増える事で野党は猛反発したが、政府に押し切られる。3月17日、日本初の屋根付き全天候型多目的スタジアム、東京ドームが落成。
9月19日、天皇が、吐血で容態急変。22日、天皇の国事行為を皇太子に全面委任。24日、病状がさらに悪化。
10月4日、ベトナムのホーチミンで二重胎体児ベトちゃん・ドクちゃんの分離手術に成功する。12月7日、本島等長崎市長が、市議会で「天皇に戦争の責任がある」と答弁。以後、右翼が激しく抗議。
1990(平成2)年1月18日、本島市長が右翼団体幹部に拳銃で撃たれて重傷を負う。
この年、天皇の病状悪化で、祭りやイベントの中止が相次ぐ「自粛」ムードになった。

