
阪東妻三郎(昭和28年没)
昭和23年に阪妻の晩年の代表作「王将」に出会う。
時が過ぎ、敗戦になった直後、人情喜劇「狐の呉れた赤ン坊」をヒットさせ、「犯罪者は誰か」、また、チャンバラの無い「素浪人罷り通る」などを撮っていたが、1948(昭和23)年「王将」(監督:伊藤大輔)に出会う。この作品で、無学の将棋の名人・坂田三吉を演じ晩年の代表作となった。
昭和24年には「左平次捕物帳・紫頭巾」のリメークを撮り、「破れ太鼓」(監督:木下恵介)、「大江戸五人男」と、興行的にも成功を収めて行く。
昭和27年「丹下左膳」、「王将一代」の撮影中、高血圧で健康が優れなくなり、昭和28年「あばれ獅子」の撮影中に倒れた。京都の自宅で静養していたが、7月7日脳膜出血のため逝去。51歳だった。子供は四男あり、三男・正和、四男・亮、ともに俳優として活躍している。長男の田村高廣も俳優だったが逝去している。
阪妻は無声映画からトーキー映画へ、そして戦中・戦後と、正に近代映画の創成期を歩んで来た。俳優、監督、プロダクション経営、撮影所建設、外国映画との提携・出演と、やっていないのは劇場経営だけで、日本映画を代表する大スターの生きざまは壮絶だった。やるもの、なすもの桁違いで、剣戟王、演技派俳優としても名を馳せた。


阪妻は豪放磊落で人情家であった。
私の好きな俳優さんで、トーキー映画初期の1938(昭和13)年に公開した「闇の影法師」が好きだった。悪役の武士が夜の巷で危害を及ぼそうとするとき、忽然と闇夜に現れ、「何者だ!」と叫ぶ武士に、あの独特のカン高い声で「ヤミのカゲボウシ」と名乗り覆面の阪妻が現れる。これにしびれた。昭和25年「影法師・寛永坂の決斗」、「續・影法師・竜虎相搏つ」などもある。
東映作品に只一作出演した、1951(昭和26)年8月公開の、子母沢寛原作「天狗の安」(監督:松田定次)も、忘れられない。
阪妻は豪放磊落で人情家であった。昭和8年頃、千葉県の阪妻撮影所近くに銭湯があった。自分一人が入るために、その銭湯の朝風呂をいつも貸し切りにしていた。月に10円支払ってわざわざ沸かせた。当時の銭湯代が7銭位の時である。
阪妻さんはいつも「悪いね、悪いね」って入って来る。普通なら借り切っているので、ゆっくり入ればいいのに「すぐ出るから、すぐ出るから」、悪いねと云いながら帰るんです。
また、撮影が終わった夜も来るんです。他のお客さんが「阪妻さんが来た、来た」って大騒ぎ。当人は「すみません、おじゃまします」と湯に入っていくんです。そこで、みんなと世間話をして帰るんです。また私の孫が銭湯で遊んでいると、いつも「いい子だ」ねって50銭くれるんです。孫がいないと「きょう、なみちゃんいないの」って言って淋しがるんです。本当に愉快な人でした」(菊井条花談)と、いう逸話も残っている。阪妻の一面が伺える話である。
<主な出演作> 「鮮血の手形」、「影法師」、「落下の舞」、「異人娘と武士」、「雄呂血」、「砂絵地獄」、「鼠小僧治郎吉」、「清水次郎長伝」、「雪の渡り鳥」、「魔像」、「恋山彦」、「血煙高田馬場」、「闇の影法師」「大岡政談・魔像」、「無法松の一生」、「狐の呉れた赤ん坊」、「王将」、「破れ太鼓」、「天狗の安」、「大江戸五人男」、富士に立つ影」、「江戸最後の日」、「あばれ獅子」、「忠臣蔵」。

