

「不良番長」シリーズなど主演作は多彩
梅宮辰夫は1968(昭和43)年から1974(昭和49)年までに、更に2本のシリーズ物を撮っている。「夜の帝王シリーズ」5本と、「不良番長シリーズ」の16本である。
更に一般アクション映画や、やくざ映画でも主役を張り大活躍した。その主な作品は「わが恐喝の人生」(昭和38年)、「列車大襲撃」(昭和39年)、「地獄の波止場」「夜の悪女」(昭和40年)、「夜の牝犬」「ゴキブリ部隊」「遊俠三代」「地獄の野良犬」「男度胸で勝負する」「ボスは俺の拳銃で」(昭和41年)、「残俠あばれ肌」「花札渡世」「決着(おとしまえ)」「渡世人」「男の勝負 関東嵐」「続・渡世人」(昭和38年)、
「続・決着(おとしまえ)」「夜の手配師」「代貸」「産業スパイ」「㊙トルコ風呂」(昭和43年)、「血染めの代紋」(昭和45年)、「夜の手配師 スケ千人斬り」(昭和46年)、「夜のならず者」「夜の女(スケ)狩り」「昭和極道史」(昭和47年)、「やくざ対Gメン 囮(おとり)」「色摩狼」(昭和48年)、「色情トルコ日記」「衝撃!売春都市」(昭和49年)、「極道社長」(昭和50年)と、私の知る限り30作、シリーズとは別の主演映画があった。まさに梅宮は驚異的なスケジュールをこなしていた。
東映では高倉健や鶴田浩二、菅原文太、藤純子が持て囃されたが、もう一方の雄、梅宮辰夫を忘れてはならない。梅宮辰夫こそ、東映を支えた俳優と言っても過言でなかった。主要作品の合間、合間が梅宮作品で埋められた。東映の屋台骨を支えた一人だった。
それにしても梅宮作品を見ると、東映の変わりゆく時代と、作品傾向が垣間見られ面白い。

「花札渡世」で体験した役者の至福(梅宮辰夫・談)
こうした時期を振り返り、梅宮(43歳)は、1982(昭和57)年に発行した「東映映画三十年」誌に一文を寄せている。
「ダニ」「ひも」「かも」「いろ」といった二字題名の一連の作品から、「夜の帝王」シリーズ、さらに「不良番長」シリーズが、私のイメージでしょう。たしかにその通りですが、過去を振り返ってみたとき、1本だけ強烈な印象を残している作品があります。それは成沢昌茂監督の「花札渡世」です。伴淳三郎先輩と、鰐淵晴子さんの共演でした。
このとき鰐淵さんとのベッド・シーンがジャーナリストを賑わせたものですが、この作品はカラーにして貰えず、当時としてはめずらしくモノクロ(白黒)の作品だったのですが、成沢監督の演出が実にきめこまやかで、それまで僕の作品には見なれない、しっとりとしたムードに溢れていたのが忘れられません。
成沢さんには二文字題名の作品の脚本をほとんど手がけていただいていたので、僕という役者の個性を十二分に掴んでおられて、脚本だけでなく、演出まで担当されたとき、存分に僕の持ち味を引き出して下さったのではないでしょうか。
「不良番長」シリーズが16本も作られているだけに、その後の「仁義なき戦い」など、いわゆるアクの強い作品の中にあって「花札渡世」だけが、なぜか印象に残るのは、それだけ、まるで異質ものであったということと同時に、その仕事を通じて、役者として「何か」を得られたからではないかと思っているのです。それが「何か」といわれても、正直な話、自分でもよく分からないのですが—-」。


東映の看板俳優になる
ここで梅宮が語っている「花札渡世」(脚本・監督/成沢昌茂)は、1967(昭和42)年3月10日「男の勝負 仁王の刺青」(監督/鈴木側文)との二本立で公開された。しかし、作品は面白かったがヒット作にはならなかった。私は「花札渡世」は隠れたやくざ映画の名作と信じている一人で、文芸作品と言っても良いほど、完成度の高い作品である。
この稿では内容には触れないが、登場する人物が一癖も二癖もあり、人生の陽陰を背負っていている姿が、研ぎ澄まされた脚本と演出で冴え渡っていた。映画ファンにはぜひお薦めしたい作品である。
梅宮辰夫の代表作に「不良番長」シリ-ズがある。全16作作られた。観客は不良だが悪を懲らしめるストーリーと、ハチャメチャなキャラクターに喝采を送った。しかし、私は好きになれなかった。第一作「不良番長」は1968(昭和43)年10月1日「徳川女刑罰史」の添えものとして公開された。梅宮、このとき30歳である。30歳でまだ不良をしている人は少ない。ほとんどが堅気になるか、極道の世界へ進む時代だったから、キャラクター的に無理があった。
しかし、何故か「不良番長」は当たった。そして、シリーズ後半には東映の看板番組になり、梅宮は高倉健、鶴田浩二、菅原文太と肩を並べる大スターになった。
梅宮はこれで人気俳優の仲間入りをした。でもシリーズ終盤には「40になっても番長だ!」という名ゼリフを吐かせないと、役作りにもキツイものがあった。最終回となった1972(昭和47)年12月2日公開の「不良番長 骨までしやぶれ」では、梅宮も34歳になっていた。
エピソード
私は映画以外で、梅宮との想い出が何点かある。
梅宮がまだ新人の1964(昭和39)年、アサヒビール㈱」が札幌市白石区にビール工場を建設する事になった。その着工の鍬入れ式に、梅宮辰夫(24歳)と小川知子(16歳)が指名され同行した。私が入社した年で当時、青山に住んでいた梅宮をハイヤーに乗せ、出来たばかりの高速道路を羽田空港まで走った事、北海道で鉄砲撃ちをした事などが忘れられない。この年10月10日東京オリンピックが開催された。
もう一つ上げておこう、
梅宮が「夜の青春シリーズ」や「夜の歌謡シリーズ」で夜の蝶を手玉に取り、プレイボーイを演じ、人気になっていた1971(昭和46)年、札幌ススキノのど真ん中に「レデースクラブ梅宮」を開店した。ホストクラブである。梅宮本人の了解を得て開店したのだが、オープニングには本人も来て、話題になり以後お客が詰めかけ店は大いに流行った。宣伝は私が担当し、いろいろなタレントも呼んだのですすき野の有名店になった。しかしその「レデースクラブ梅宮」は、今は無い。事業主は私の知人である。
余談になったが、昭和の時代、こうした輝かしい芸歴を持った俳優が評価されないのは悲しい。梅宮は「昭和スターの生き残り」を自称し、「いまの芸能界は顔つきも物腰も柔和な芸能人ばかりが幅をきかせて腹が立つ」と苦言を呈して世を去った。芸能人は自戒すべきである。まさに俳優不在の時代になった。ナイスガイ梅宮辰夫に合掌!

