
1955(昭和30)年〜1965(昭和40)年
近代映画協会「裸の島」64ヶ国へ
新藤兼人監督の「裸の島」が成功し話題を集めた。近代映画協会は、1950(昭和25)年、脚本家の新藤兼人が作家性を貫くため、松竹を退社して、監督・吉村公三郎、俳優・殿山泰司らと設立した会社である。
協会は、「原爆の子」「夜明け前」「足摺岬」「鬼婆」など、数多くの名作を世に出し、独立プロとして実績とキャリアを積んでいた。しかし、今回の「裸の島」は、協会が経営危機にあったため、解散記念作とし臨んだ。
作品は、瀬戸内海の孤島で暮らす、貧しい中年夫婦と子供たちの生活を描くもので、台詞がいっさいなかった。そのため、あまりの地味さに大手映画会社は、配給を引き受けなかった。

それでも新藤は500万円を捻出し、宿弥島での合宿ロケを決行。スタッフは監督も含め13人。彼らの家族の生活費を最低2ヶ月分払っただけで、後はノーギャラ。俳優は乙羽信子と殿山泰司の2人だけ。ほかは現地の人たちを起用した。
完成した作品は、1960(昭和35)年11月23日公開。口コミで話題が広がり、公開から41日間で11万人を動員。翌年、モスクワ国際映画祭でグランプリを獲得すると世界中から引き合いが有り、64ヶ国で公開された。
おかげで、この作品1本で会社設立以来の累積赤字を解消した。また、12ヶ国から映画賞が贈られ、映画関係者を驚かせた。

「地の涯に生きるもの」と森繁久彌
1960(昭和35)年10月16日公開のこの映画は、北海道知床で長期ロケを実施した。撮影隊は羅臼町のウトロを基地にした
作品は戸川幸夫の原作「オホーツク老人」の映画化。物語はサケ魚の漁師が帰った後、知床の番屋を、冬期間、1人の老人が、猫を相手に守っていた。老人は過ぎ去った日をネコに語り掛ける。

彦市(森繁久彌)は1890(明治23)年、ウトロ港近くのオシンコシン岬の番屋で生まれる。国後島に移った彦市は番屋の飯炊き娘“おかつ”(草笛光子)に惚れ込み、鉄十(西村晃)と決闘の末、自分のものにし結婚。3人の子供が生まれた。しかし長男は流氷に流されて死に、次男(山崎努)も戦死。
戦後、妻の“おかつ”は急性肺炎で倒れ、網走の病院に運ぶ途中の雪原で亡くなる。そのため、東京で働いていた三男・謙三(船戸順)は、いやいや漁師になったが、彼も海に出て帰らぬ人となった。謙三の恋人冴子(司葉子)が荒れる海を見に来たとき、彦市は父親の名乗りが出来なかった。
吹雪の中、ネコに語り掛ける老人は1人ボッチになって番屋の留守番で生きていた。ある日、飼い猫のクロが大鷲に襲われた。老いた身に鉄砲を構え、助けに向かったが彦市は氷面で足を滑らせ海中へ。氷で閉ざされた海中から這い上がれず老人は水死する。このとき半島の春はまだまだ先であった。
森繁が撮影で羅臼を去る日、地元民に即興で残した「さらば羅臼よ」の歌が、1970(昭和45)年11月、加藤登紀子が「知床旅情」としてリリース。その年、最大のヒットになり、知床がクローズアップされた。歌は第13回日本レコード大賞歌唱賞も受賞した。
年間10万人位だった観光客が映画上映後は、一挙に260万人へ膨れ上がり、知床ブームが起きた。1978(昭和53)年10月15日、羅臼町のしおかぜ公園に「オホーツク老人・森繁久彌顕彰碑」が建ち、2005年には、知床が世界自然遺産に登録された。
羅臼町では開闢以来のロケ隊に町を上げて協力した。映画のロケで、地元民とこれほど交流を交わした撮影隊は珍しい。それほど、森繁久彌は現地を愛した。また、にぎやかでひたむきなロケ隊は、知床の人達をとりこにした。森繁と人々の絆はいまだ、知床の人々の心に生き続けている。
撮影をした1960(昭和35)年、知床はまだ秘境で自然を多く残していた。北海道の海が綺麗に描かれた作品で、筆者はこの作品を、森繁出演映画の代表作に位置づけている。漁師が船を漕ぐ「お〜しこい、お〜おしこい」の声が、漁師町で育ったせいか感傷を刺激した。今は聞けない労働の掛け声だ。
作品は1960(昭和35)年の芸術祭参加作品である。森繁プロは、この映画に1千万円の私財を注ぎ込んだ。そんな熱意と気迫を込めた作品だった。佳作で面白かったが、何故か興行的には失敗だった。
