
1955(昭和30)年〜1965(昭和40)年
映画の観客動員数、戦後最高に
娯楽といえば映画が全てだった時代が頂点に達した。この年、映画観客動員数が11億2,745万人と、戦後最高を記録。しかし、翌年から観客は減り始め、38年後の1996(平成8)年には10分の1近くまで数を減らす。
テレビの普及が一番の原因だった。1958(昭和33)年に8.7%だった受像機の世帯普及率は、翌年にかけてのミッチーブームで19.3%と倍増。その対抗策として、映画各社は、大型化や2本立て上映を推進する。

なかでも、当時興行力でトップの日活は元気が良かった。前年暮れに公開した「嵐を呼ぶ男」を始め、「錆びたナイフ」「陽のあたる坂道」「赤い波止場」「紅の翼」など、石原裕次郎作品を積極的に公開。
さらにスターの発掘を進め、小林旭、二谷英明、宍戸錠、浜田光夫、赤木圭一郎らの新人スターを次々に起用するなど、男性路線を強化。女性のファン心理を尊重するため、映画のキスシーンを厳禁するというエピソードまであった。

「森と湖のまつり」アイヌ問題を描く
1958(昭和33)年11月26日公開の「森と湖のまつり」(監督・内田吐夢)は、北海道を舞台にした作品で、70人近くのロケ隊が2ヶ月、阿寒、標茶町紅別原野、ベカンベ祭りの「鶴の舞」を踊る搪路湖畔など、道内各地で撮影し、北海道の四季が美しく描かれた作品だった。
内容は、女流画家・佐伯雪子(香川京子)がアイヌ研究者・池博士(北沢彪)と共にコタンを訪れる。そこで民族の自立とアイヌの差別反対に奔走している一太郎(高倉健)を知る。釧路で酒場を営むアイヌ娘、ツル子(有馬稲子)も一太郎に引かれていたが…。

北海道・阿寒の雄大な自然を背景に、アイヌ民族の存亡と、愛をめぐるドラマを内田吐夢が正攻法の演出で描く。高倉健がアイヌ民族の復権と、亡びゆくアイヌのために闘う主人公を野性味豊かに演じた。
シナリオを何回も書き直しされた
映画の冒頭、カメラは雌阿寒岳頂上から阿寒の森と湖をで捉える映像が雄大で素晴らしい。
この作品はアイヌの問題に目を背けない問題提起が会社側から否定され、シナリオを何回も書き直しされた。そのため原作・武田泰淳のエキスが薄い作品になった。
しかし、当時アイヌ問題に取り組む者が少なかったので、アイヌの人達が全面協力した。また主演の高倉は監督に毎日しぼられ、音を上げたが頑張った。高倉は後年、この作品で映画に対する考えが変わったと回顧している。
高倉健の初期の代表作で、東映は期待した作品だったが興行的には振るわなかった。
ちなみにこの年1958(昭和33)年の興収ベストテンは、①忠臣蔵(大映)、②陽のあたる坂道(日活)、③紅の翼(日活)、④隠し砦の三悪人(東宝)、⑤任侠東海道(東映)、⑥明日は明日の風が吹く(日活)、⑦風速40米(日活)、⑧日蓮と蒙古大襲来(大映)、⑨彼岸花(松竹)、⑩旗本退屈男(東映)などであった。
この年、なんと言っても石原裕次郎である。ベストテンに4作品が入り、破竹の勢いだった。しかし、映画は翌年から静かに観客動員が下降していく。
