

山田五十鈴(平成24年没)
山田五十鈴は戦前から戦後にかけて活躍した、昭和を代表する女優である。優れた演技力で多くの名作を残した。44歳以降は舞台女優としても活躍し、新派の水谷八重子、俳優座の杉村春子と共に三大女優と呼ばれた。平成12年、多彩な芸能活動の実績が認められ、芸能人で初の文化勲章が授与された。
山田五十鈴の生涯は波乱万丈である。無声映画の時代にデビュー。映画がトーキー化され、業界が最も激変していた昭和初期には、既に大女優として活躍していた。併せて戦中、戦後の苦難の中を芸の求道者として彷徨した。山田の映画界での活躍は、ほぼ三七年間で、後年、その活躍は舞台に移った。 ここでは山田五十鈴の長い芸能生活の中でも、映画界での活躍を記しておきたい。

伊勢神宮の神域を流れる五十鈴川から取って「山田五十鈴」
山田五十鈴は、1917(大正6)年2月5日、大阪市南区千年町に生まれた。本名・山田美津。父は新派俳優・山田九州男、母は津と云い、大阪・北新地の売れっ子芸者だった。芸能一家に生まれた山田は、六歳の時から常磐津、長唄、清元、踊りの稽古に通い始め、一〇歳の時には清元の名取となり梅美智の芸名を貰う。
父の親友が日活太秦撮影所長・池永浩之だったのでスカウトされ1930(大正5)年1月、日活に入社。13歳の時である。
芸名は池永所長が、伊勢神宮の神域を流れる五十鈴川から取って「山田五十鈴」とした。日活では時代劇部に配属されたが、柄は大きくてもまだ子供だということで、監督の渡辺邦男宅に預けられた。ここで女優としての心得から演技について学ぶことになった。
いきなり人気絶頂の大河内傅次郎の相手役に抜擢された
入社したその年、渡辺邦男が監督した「剣を越えて」で、いきなり人気絶頂の大河内傅次郎の相手役に抜擢された。しかも主演級だった。新人女優登場の派手な宣伝は、先輩や周囲のやっかみにあった。撮影所の部屋は池永所長のお声がりということで、大幹部女優・酒井米子、梅村蓉子と同室に据えられた。
しかし、「へえ、こんなチンピラが来るんじゃ、私たちはお邪魔でしょう。鏡台を並べるなら、今日限り女優を止めるわ。」と、梅村蓉子が鏡台を持って部屋を出ていってしまった。そんな嫌味を言われ、行き場のなくなった山田を、伏見直江が自分の部屋へ入れてくれて事件は落着した。
こうした「楽屋の部屋割り」のトラブルは映画界では常についてまわるが、まだ若く新入りの山田には衝撃だった。この事件を知った池永所長は日活と提携していた、片岡千恵蔵プロに山田を預けることにした。女優仲間の風当たりを、少しでも避けさせてやろうという、池永の配慮によるもので、結果的に山田に幸いした。
行った先の片岡千恵蔵が温かく迎えてくれ、次ぎ次ぎと出演作に出ることが出来た。「忠直卿行状記」、「續大岡政談 魔像解決篇」、「国士無双」、「弥太郎笠」、「瞼の母」などの数々の作品に出演できた。1933(昭和8)年、出演した「金色夜叉」では、他の女優に先がけてトーキー映画を体験した。このとき既に、押しも押されもせぬ日活時代劇のトップ女優になっていた。
