
1955(昭和30)年〜1965(昭和40)年
日本にシネマスコープ登場!
この頃、東映は、第一東映・第二東映を合わせて、週に4本も製作していた。これで五社配収の、5割近くを占めたこともあり、東映はまさに日の出の勢いだった。京都の撮影所では、10棟以上あるスタジオがフル稼働していた。
東映は他社に先がけ、早い時期から、ワイド映画の製作と配給を研究していた。ワイドスクリーンによる劇映画がテレビヘの有効な対抗策であることは、アメリカのシネマスコープ第一作の「聖衣」でも、はっきりと認められていたからだ。
邦画各社もワイド映画の制作に本腰
1957(昭和32)年4月2日、東映は他社に先がけてワイド映画「鳳城の花嫁」(監督・松田定次)を公開。東映に遅れること27日、新東宝が4月29日、シネマスコープ、総天然色「明治天皇と日露大戦争」を公開した。
この両作品が大当たりで、他の邦画各社もワイド映画の制作に本腰を入れ、洋画に押されていた邦画は、再び勢いを盛り返していった。ワイド・カラー映画の夜明けであった。
またこの時代、今では「拡大封切り」といって、1本の映画を数多くプリントするが、当時は1本の映画が、数ヶ月掛かって各地を1周するのが普通で、まず封切館にかかり、次に2番館、3番館、キリは番線外というものまであって、料金もしだいに安くなっていく。
1番から地方の2番館へのフィルム転送は、映画会社に転送の専門部署があり、ブッカーと呼ばれ、国鉄の時刻に精通した人が、プリントの転送伝票を切っていた。
上映に間に合わない時は、車掌さんにお願いして、転送先の駅に落としてもらう事も多く、車掌さんと配給会社、受け取り先の館主さんは、あうんの呼吸で対応していた。
また、撮影の都合で封切りが遅れたり、台風などでフィルムが到着せず、上映出来なかったこともよくあった。今のように自動車便が無い時代だった。
ちなみに1957(昭和32)年の興収ベストテンは、①明治天皇と日露大戦争(新東宝)、②喜びも悲しみも幾年月(松竹)、③嵐を呼ぶ男(日活)、④水戸黄門(東映)、⑤任侠清水港(東映)、⑥大菩薩峠(東映)、⑦鳳城の花嫁(東映)、⑧大忠臣蔵(松竹)、⑨大当たり三人娘(東宝)、⑩挽歌(松竹)だった。
特に新東宝の「明治天皇と日露大戦争」(監督・渡辺邦男)は空前絶後の大ヒットで、倒産寸前の新東宝を救った。この記録は、1965(昭和40)年の「東京オリンピック」(監督・市川崑)まで破られなかった。

日本縦断撮影「喜びも悲しみも幾年月」
1957(昭和32)年10月1日公開の「喜びも悲しみも幾年月」(監督・木下恵介)が高い評価を得てヒットした。
この作品、撮影の開始から終了まで8ヶ月を要した大作。

撮影は、北は北海道・納沙布岬から、南は五島列島・女島まで全国15ヶ所をカバーする日本縦断ロケが敢行された。燈台守夫婦の25年にわたる物語である。
物語は、上海事変の勃発した1932(昭和7)年、新婚早々の夫婦が観音崎灯台に赴任した。翌年には、北海道石狩燈台へ転任となり、そこで長女と長男が生まれ、1937(昭和12)年には女島へ転任。
ついに日米開戦を告げる前年、佐渡の燈台に移る。…という風に“激動の昭和史”を副軸におく感動編。同名の主題歌は若山彰の歌で大ヒットとなった。
北海道ロケでは、白一色の石狩灯台に赤い横線が入ったのはこの映画撮影のため。当時はカラー映画の始まりで、色彩効果を上げるのに模様替えをした。しかし海上保安庁からの許可が下りるのに、かなりの手間と時間がかかった。
その後、石狩灯台は、1965(昭和40)年に無くなり、1998(平成10)年、数10メートル離れた現在の位置に新しく設置された。映画は、7月の四季感を出すのに真っ赤なハマナスを咲かせている。これはロケ隊が造花を植えた物で、薄紅色のハマナスが真っ赤だった。
映画を見た観光客が訪れ、ハマナスが赤くないのに驚いて帰る人が後を絶たなかった。灯台横には若山彰の映画主題歌「喜びも悲しみも幾年月」(作詞・作曲・木下忠司)の歌碑が立ち、観光客が今でも訪れている。多くの人が涙した作品でもあった。

