
1950年(昭和25年)

後に脚本界の巨匠となる橋本忍32歳の作品である
更に忘れてならないのは、脚本と撮影、音楽である。脚本の橋本は当時、伊丹万作の指導を受けていたが伊丹の死後も、サラリーマンをしながらシナリの勉強していた、その無名の橋本忍が、芥川龍之介の小説「藪の中」をペラで93枚の短いシナリオに書いていた。
これを知った黒澤明が読んで「ちょっと短い」と言う。橋本はとっさに「じゃ、羅生門を入れたらどうでしょう」と自信たっぷりに答えた。実は何の勝算もなかった。これを黒澤が受け入れ、二人で共同執筆して具体化した。橋本忍32歳の時である。後に脚本界の巨匠と呼ばれる橋本のデビュー作でもあった。
これ以降、橋本忍は黒澤作品の脚本を次々と書き上げる。「生きる」、「七人の侍」、「生きものの記録」、「蜘蛛巣城」、「隠し砦の三悪人」、「悪い奴ほどよく眠る」、「どですかでん」などである。

撮影の魔術師宮川一夫のカメラワーク
更に撮影の宮川一夫も絶賛された。当時はタブーとされていた太陽に直接カメラを向ける撮影、自然光を生かすため暗い藪の中をレフ板でなく、鏡を使い光の濃淡を捉えるなど、宮川はカメラの魔術師と驚愕させた。縦横奔放なカメラワーク等によって、きわめて、異色ある映像つくりに成功した。
映画音楽の認識を変えた作曲家早坂文雄
音楽も効果をあげていた。この音楽を担当したのが早坂文雄だった。当時、早坂は日本作曲界のホープであり、同時に映画音楽の第一人者でもあった。
早坂は、1913(大正2)年仙台に生まれだが、幼少のころ北海道へ渡り、25歳になるまで札幌で過ごした。一方の映画音楽の雄になる、伊福部昭二らと札幌で「新音楽連盟」を結成、近代音楽の紹介や作曲に熱中していた。そうしたとき、早坂は突然、植村泰二・東宝社長から、東宝映画の音楽監督として招かれる。
早坂が「彗星的天才」とジャーナリズムで騒がれるのは、このあたりからである。「リボンを結ぶ夫人」(監督:山本薩夫)でデビューして以来、貧弱な伴奏音楽程度だった映画音楽の認識を、がらりと塗り変えた人といえよう。「羅生門」はその代表作でもあった。
その後、「七人の侍」や、溝口健二監督の「雨月物語」、「山椒大夫」、「近松物語」、「楊貴妃」など多数の作曲で名を馳せた。
「羅生門」の受賞は、国民に希望と勇気を与えた
「羅生門」の受賞は、当時の日本はまだ米軍占領下にあり、国際的な自信を全く失っていた時だけに、現在では想像も出来ない程に、国民に希望と勇気を与えた。前評判が高く、その前評判をさらに越えるような映画が誕生することは滅多にないこと。まして、日本映画界低迷の年であった。奈落の底で、珠玉の宝石が燦然(さんぜん)と輝いたといえようか…。
受けた賞は、昭和25年ブルーリボン脚本賞。毎日映画コンクール女優演技賞(京マチ子)。翌年の昭和26年にアカデミー賞・名誉賞。ベネチア国際映画祭・金獅子賞、イタリア批評家賞。ナショナル・ポート・オブ・レビュー賞・監督賞、外国語映画賞。ニューヨーク映画批評家協会・外国語映画賞。全米映画評論委員会・監督賞。英国アカデミー賞・総合作品賞。全米監督協会賞 ・長編映画監督賞。など世界各地から受賞した。
製作:大映京、箕浦甚吾、監督:黒澤明、脚本:黒澤明、橋本忍、音楽:早坂文雄、撮影:宮川一夫、出演:三船敏郎、森雅之、京マチ子、志村喬、千秋実、上田吉二郎。

