
1955(昭和30)年〜1965(昭和40)年
〈もはや戦後ではない〉
7月17日、経済企画庁が「経済白書」を発表した。白書は回復を通じての成長は終わった。国民所得や技術革新からみても「もはや戦後ではない」と言い切った。
敗戦直後の復興時代に別れを告げ、これからは変容・改革と組織的・技術的な革新による経済成長を目的としなければならないと「白書」は主張した。このとき、テレビが量産されるなど好景気を享受していた。
〈タフガイ裕次郎登場〉
5月17日公開の映画「太陽の季節」(監督・古川卓巳)で、日本人離れしたスタイルと不良っぽい雰囲気で彗星のように、タフガイ石原裕次郎が現れ、その型破りな存在感が若者を捉えた。
日活の救世主として現れた裕次郎はその後、日本を代表する俳優へと成長する。デビュー当時、誰もが裕次郎の脚の長さに驚いた。身長182㎝、股下は85㎝あったという。日本のタフガイ裕次郎は世界に通用する立派な体格だった。
〈その他の出来事〉
1月15日、大阪・千日前の大阪劇場で美空ひばり公演があり、入場券売り場の窓口に2,000人が殺到。将棋倒しとなり、1人が死亡、重軽傷者9人を出す事故が起きた。
5月24日、売春防止法公布。施行は来年の4月1日。罰則規定適用は1958(昭和33)年4月と、働く女性の厚生期間と業者の転業を考えての処置だった。
北海道新聞と札幌映画協会が対立
札幌には、戦前から「札幌映画協会」という団体がある。札幌の邦画・洋画の配給会社と興行会社、劇場が加盟している特殊で特異な団体である。こうした団体は、全国的にも札幌以外には無い。

配給会社は売り手の側であり、興行側は買い手である。要するに、売り手と買い手という利害の相反する立場である両者が、「お手てつないで仲良く一緒」などということは、常識的には考えられない。だが、札幌は、その“常識”を破って組織を作った。いってみれば、「呉越同舟」である。
この協会、戦前から有ったが、もともとは業者の親睦団体のような、ごく内輪の会だった。初代会長は、札幌松竹座支配人だった前川弥輔。それが、一応の規約を持ち、一種の連合体となったのは、戦後間もない1948(昭和23)年のことだった。
そのころ、洋画といえばセントラルの独占だったが、邦画関係が一致団結して対抗する意識で協会の基礎を固めた。その後、1951(昭和26)年暮れにセントラルが解体し、洋画関係者もぼちぼちと、札幌映画協会に加盟するようになる。
しかし、それも洋画関係の支社長などは、専らポケットマネーで、つまり個人的に参加していた。洋画関係の本社が、札幌映画協会への加盟を正式に認めるようになるのは、1955(昭和30)年頃からだった。合わせたように事件が起きる。

映画案内料の値上げ
事件が起きた、というのは少し言い過ぎかもしれないが、札幌映画協会側にとってはまさに事件であった。1956(昭和31)年になって、北海道新聞(以下道新)が突然、記事下の映画広告と、朝刊の映画案内料の値上げを協会に通告してきた。
それも、非常に大幅な値上げであった。そのため札幌映画協会と道新の間に、トラブルが発生したのだ。この時の料金改定は、それまでのおよそ4倍という値上げであった。協会側は「道新はこれまで値上げが起こると、新聞社としての正しい使命感を発揮し、庶民の見方という立場を貫いてきた。
それなのに、自社の広告料金となると、理由もなく法外な値上げをする」として反発。これに対し、道新側は「1度に4倍もの不当値上げではなく、広告料は発行部数が基準になって決定されるべきものであり、今回の値上げは、これまで三流紙以下に安かった広告料を、本来の形に戻したもの」と反論。話し合いは続けられたが、値上げの金額は下がらなかった。
一切映画の広告を掲載しないと取り決め
そこで協会側は、1957年(昭和32)年10月7日から道新には一切映画の広告を掲載しないと取り決め、実行した。その間、北海タイムスへ映画の広告の全てを移した。また、札幌市内の映画館に張り紙を出し、当分の間、道新と戦うことを宣言する。
そうするうちに、一般読者の苦情の声が新聞販売店に来始めた。「映画の広告案内が無いのが新聞といえるか」。というもの。販売店の突き上げによって道新は、仕方なく独自調査で作成した映画案内を出した。しかしミス広告が多く、協会側はペナルティーを求めて逆ネジをかけた。
結果、道新がバンザイをしてしまった。広告が復活したのは、同年、11月11日からで、1ヶ月間の攻防戦であった。それ以来、双方間にトラブルはない。道新が協会の結束を固めるのに一役買ったといえようか。
ちなみに、当時の新聞、特に夕刊はデパートと映画の広告が大半を占め、この2社の広告が、新聞社の大きな収入源だった。
映画案内はニュース扱い
そのため、他の業種より料金が安かった。朝刊の映画案内もニュースと捉え、通常の案内広告より安い特別料金だった。今もその特例が続いている。
映画広告といえば、こんな変わった例もある。「サンケイスポーツ」の東京本社版が1963(昭和38)年2月に創刊した。当初、部数が伸びず苦戦していた。発行翌年の1964(昭和39)年、新聞社が東映に広告を依頼してきた。
スポーツ紙は芸能記事が盛んで、映画広告のない新聞は、相撲で横綱が居ないのと同じく、何とも様にならなかった。東映は広告料金を他のスポーツ紙より安くする条件で契約する。
ちょうどヤクザ映画の量産がスタートした年でもあった。サンスポの広告代理店は東映AGで、筆者は毎回作品が変わる度、他紙より大きい広告を、宣伝課長にお願いし連発した。1頁や2頁広告がどんどん増えていく。他紙からもサンスポと同じ出稿量にしてくれと希望が来る程だった。
しかし半年後、サンスポから、広告を減らして欲しいと逆の希望が来た。話を聞いてみると、「広告スペースがいつも大きく、他の広告料金とバランスが取れない、併せて東映の広告料は紙代にもならない」と言う。
こうした理由で広告を減らして欲しいと言うのは珍事で、唖然とした。しかし、それ以降、加減して出稿した。サンスポ初期の出来事で、今では考えられない事である。裏を返せばそれほど映画の広告料金は安かった。

