
1966(昭和41)年〜1988(昭和63)年
アニメ映画、脚光を浴びる
アニメーション映画(以後、略してアニメ)が脚光を浴びるのは、1977(昭和52)年のことである。松本零士原作の「宇宙戦艦ヤマト」(監督・舛田利雄)が、記録的なヒットをみせたのがきっかけ。この年の動員トップテン九位に食い込むという健闘ぶりで、配収9億2,646万円を稼いだ。

映画版「宇宙戦艦ヤマト」は当初、1977(昭和52)年8月6日公開で、東京の四館だけだった。ところが上映の情報が伝わると、ラジオを中心に全国での上映を希望する声が高まり、地方都市への拡大が決定された。
但し、東京公開から1週間遅れの8月13日とし、これを、札幌市の2館公開予定だったのが、旭川市、函館市、室蘭市に拡大公開されることになった。これを皮切りに地方へのブッキングが進み、全国ロードショーが決定する。
さらにその翌年、8月5日公開の「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」(監督・舛田利雄・松本零士)が、配収21億1,922万円で、ベストテン2位と、一気に駆け上がった。トップテン1位の角川映画「野生の証明」に、わずか6,714万円という僅差にまで肉薄した。
各館とも開場前から長蛇の列
このときの過熱ぶりが凄かった。全国132館で一斉公開されたが、各館とも開場前から長蛇の列をなした。「札幌東映パラス」では前日から寝袋持参の若者たちが並んだため、当日、午前5時に開場する珍しい早朝興行となった。
深夜興行に慣れている劇場もこれには驚いた。驚いた事がもう1つ。売店のキャラクター商品が飛ぶように売れた。2日目から品切れが続出、慌てて補充する一幕もあった。
1日を閉めてみたら入場収入とキャラクター商品の売り上げが同じ。1興行で2興行分の商売をした劇場はホクホク。

アニメが市民権を得た
以後、東映は本格的にアニメ興行を推進する。アニメが映画界で市民権を得た貴重な作品が「ヤマト」だった。
続いて翌年の1979(昭和54)年8月4日に公開した、松本零士原作の「銀河鉄道999」(監督・りん たろう)が、ついに配収16日億2,285万円でその年、観客動員のトップに立った。
翌年、第2作「さよなら銀河鉄道999」が1981(昭和56)年8月1日に公開され、これもヒット。ここにアニメ映画の世界は完全に、新たな観客層を定着させた。またこの事は、依然として低迷する大手メジャー3社に「本来の映画はどうした」とカツを入れたようなものでもあった。
角川春樹・実力の証明
「犬神家の一族」のヒットに続く、翌、1977(昭和52)年、角川春樹は第2作「人間の証明」(原作・森村誠一)をプロデュースすることを発表。この当時の映画界は、まったくの手詰まりの状態といえた。
キャリア30年〜40年のベテラン活動屋でも、一体どんな映画なら観客を呼べるのか考えあぐねていた。「犬神家の一族」のヒットは、そんな映画界にカンフル剤の役目を果たした。しかし、業界の大多数はそれでもなお、「あれはフロックだ」と冷ややかであった。
日本映画界の低迷期にまさに救世主
だが、角川映画第2作の「人間の証明」(監督・佐藤純彌)が、ニューヨークロケに加えて現地スタッフを使うと聞いて、さすがのベテラン活動屋もびっくりしてしまった。今となってみれば、角川春樹は日本映画界の低迷期にまさに救世主のように登場したわけだが、デビュー当時は「ネギを背負ったカモ」が来たと言われていた。
製作発表の記者会見とは、普通ジャーナリストのためのものだが、この席に大手の映画会社の幹部が、洋画配給会社も含めて集合していた。
その様子を「まるで蜜に群がる蜂のように」と新聞は評したほどであった。だから、第1作、白木の棺の中から仮面をかぶって彼が登場したことは、単に過剰な演出をしたのではなく、もっと象徴的な意味が秘められていた。

既成のものに対する猛反発
この「人間の証明」も見事大ヒット。歌のジョー山中や西條八十の詩「母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね」が話題になった。ともあれ、角川映画には、既成のものに対する猛反発ともいえるものが随所にみられる。それは映画づくりだけではなく、むしろ宣伝方法に顕著に現れた。
角川映画の興行的成功は、「製作費を上回る大量宣伝の成果だ」と悪口もいわれたが、逆にいうと大手の映画会社は「武士の商法」をやっていたともいえよう。「テレビで育った若い世代に、テレビを通じて映画の持つ魅力を教えた」のが、実は角川映画なのである。

