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日本映画100年史

本【日本映画100年史】をリアルタイムで加筆していく、ライブブックブログ!

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映画界最大の汚点

2019.10.10 by 西川昭幸

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1951(昭和25)年〜1955(昭和29)年

5社協定で自殺者も 

他にも5社協定で苦汁を舐めた、映画人が多くいた。その1人が大映の俳優・丸井太郎だ。丸井は1963(昭和38)年、テレビドラマ「図々しい奴」(原作・柴田錬三郎)の主役に抜擢され、平均視聴率30%強、最高視聴率45.1%という高視聴率を記録し、一躍人気者になり、テレビドラマのオファーが殺到した。

「田宮二郎」の画像
田宮二郎

しかし5社協定により人気スターがテレビドラマに出演することが、出来なかった。「売れている役者は映画優先」という永田雅一の方針で、丸井は映画に戻らざるをえなかった。

映画界では飼い殺しに等しい

大部屋俳優からテレビ映画でチャンスを掴んだ丸井は、肥満体で朴訥とした感じが人気だったが、映画界では飼い殺しに等しい扱いだった。

勝新太郎や市川雷蔵、特撮映画の脇役を演じるに留まり、やがて存在そのものが忘れ去られて行った。その境遇に絶望した丸井は1967(昭和42)年9月6日、ガス自殺を図り亡くなった。享年32歳の若さだった。

また、大映の田宮二郎は、1968(昭和43)年、「不信のとき」(監督・今井正、原作・有吉佐和子)の宣伝ポスターの配列に注文を付けた。配列が4番目なのである。大映現代劇トップ男優の、彼にとってはゆずれない大問題だった。息子・永田秀雅(撮影所長)が決めた配列を、社長・永田雅一に直談判し、自己主張を認めてもらう。

しかし田宮は「私が首を掛けて撮影所長に抗議しても受け入れて貰えなかったのだから、私が辞めるか、所長が辞めるしかない。」と言うに及んで、永田社長は「おい、思い上がるのもいい加減にしろ。お前は横綱、大関クラスの役者だと思っているだろうが、まだ三役クラスの役者だ。人事に口を出すな」と憤慨。

田宮二郎を一方的に解雇

結果的にポスター配列は田宮の意向通りになったが、永田社長は、田宮を一方的に解雇。ただでさえスター不足の大映は経営難でますます傾くことになった。記者会見で「田宮を辞めさせては興行的に困らないか」との質問に、「失礼な、それほど大物ではない」と反論している。

更に5社協定を持ち出し、他社映画もテレビドラマにも田宮を使わないように通達した。田宮は「白い巨塔」の財前五郎役が有名で、勝新太郎との「悪名」シリーズ14作や「犬」シリーズ9作。「早打ち」シリーズ8作などに出演し人気者だった。

永田雅一の権力に真っ向戦った

しかし、解雇の翌年、1969(昭和44)年から不死鳥のようにテレビ番組で甦り、他社映画にも出演し、永田雅一の権力に真っ向戦った。この時、大映が斜陽化し、永田雅一の意向も、もはや通じない芸能界になっていた。

しかし田宮は、1978(昭和53)年12月28日、港区元麻布の自宅で、愛用の猟銃を心臓にあてがい、足の指で引き金を引く、映画のシーンのような衝撃的な方法で自殺を図って死亡した。享年43歳。後年妻が強度の「うつ病」だったと告白している。

また、この協定が原因で映画界を追われた監督やスタッフも沢山いた。多くはテレビ番組の製作に関わっていくが、これらの人達が昭和40年以降の、テレビ番組製作のレベル向上に果たした役割は大きかった。

5社協定の顛末 

この5社協定、1950年代後半に、急速なテレビの普及に対抗し、映画会社の既得権を守る側面もあった。テレビへの劇場用映画提供を打ち切り、専属の俳優の、テレビドラマ出演も制限した。そのため、テレビ局はドラマなどに新人俳優や劇団員などを起用するしかなかった。

1960(昭和35)年初頭から日本映画産業の斜陽化は著しく、テレビの急速な普及・発展、高度経済成長による娯楽の多様化などで映画は苦戦していた。そうした煽りで、1961(昭和36)年9月1日、新東宝が倒産する。

協定が映画の技術開発を遅らせた

その後、映画界の衰退が続き、1967(昭和42)年、石原裕次郎と三船敏郎が共同製作した「黒部の太陽」(監督・熊井啓)や、1969(昭和44)年には、三船プロダクション製作「風林火山」等が、五社協定の垣根を崩していく。

1971(昭和46)年、日活が業績不振で一般劇映画から撤退。同じ年、東宝も専属俳優を一斉解雇。東映もテレビへ比重を移し、テレビ番組製作を開始。5社協定の主導者であった永田雅一率いる大映は、稼ぎ頭の市川雷蔵を病で失うなど、いよいよ末期的な凋落傾向となり、1971(昭和46)年11月29日、本社ビルを売却。

累積赤字55億8千万円を計上して一斉の業務を停止する。併せて全従業員の解雇を発表。5社協定のドン・永田雅一が失脚する。

この結果、有名無実になった映画会社専属制のスター・システムは崩壊し、5社協定は自然消滅する。この協定、日本映画発展の阻害要因となり、映画界衰退の大きな一因となった。

こうした協定が映画の技術開発を遅らせ、外国の撮影手法などを学ばず、映画後進国の香港、韓国、台湾などはスタッフをアメリカに派遣し、ハリウッドで映画を学んでいたのとは大違いだった。5社協定は日本映画人の見識の無さを暴露した、映画界最大の汚点といえる。

Filed Under: 昭和(中期) Tagged With: 永田雅一, 田宮二郎, 5社協定

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著者紹介(西川昭幸)

アバター1941年北海道生まれ。東洋大学社会学部卒。
映画会社勤務などを経て現在、公益社団法人理事。
<主な著作>
「北の映画物語」(北海タイムス社)、
「美空ひばり公式完全データブック 永久保存版」(角川書店)、
「活字の映画館 明治・大正・昭和編」(ダーツ出版)、
「日本映画100年史」(ごま書房新社)、
「美空ひばり最後の真実」(さくら舎)、
「昭和の映画ベスト10、男優・女優・作品」(ごま書房新社)

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