
1943年(昭和18年)
戦中映画の名作として映画史に残る
この映画に涙した人は多い。無知で粗暴な男が、純愛一途に生きた物語である。「無法松の一生」(監督:稲垣浩)は、1943(昭和18)年10月28日に公開された。
岩下俊作の小説「富島松五郎伝」の映画化である。脚本は伊丹万作。伊丹は自分が監督するつもりで脚本を書いたが、病に伏していて出来ず、親友の稲垣浩に監督を譲り完成した。
物語は、1897(明治30)年、九州小倉に無法松と呼ばれる人力車夫・松五郎(阪東妻三郎)がいた。
バクチで小倉を追放され再び町に戻っていたが、若松警察の剣道師範(山口勇)とも知らずに喧嘩し、杖で頭を叩かれ、負傷して、木賃宿の宇和島屋(主人・杉狂児)で寝込んでいた。

度胸の良さと義俠に富んだ名物男
松五郎は人呼んで不死身の松、あるいは無法松といわれているが、実は根っからの善人で度胸のいいことと義俠に富んだ名物男であった。ある夜、松五郎は常盤座の芝居をのぞきに行った。当時、車夫は木戸ゴメンだったが、その夜に限って断られてしまった。
松五郎は一旦家に帰ってから出直し、仲間の熊吉(尾上華丈)と二人で一等席の切符を買い、七輪をぶらさげて客席の真ん中に座って鍋料理とにんにくを炊き始めた。その臭気に観客は大騒ぎ。止める小屋の連中と大喧嘩が始まったが、土木請負師の親分・結城重蔵(月形龍之介)に仲介され、こんこんと諭され、素直に謝った。
ある日、松五郎は子供を救いあげた
この事件いらい、松五郎は喧嘩をしても他人様に迷惑を掛けないと誓った。ちょうど日露戦争がすんで、人々は勝利の祝いに酔っていたときである。ある日、松五郎は竹馬から堀に落ちた子供を救いあげた。
陸軍大尉、吉岡小太郎(永田靖)の一人息子、敏雄(沢村アキラ、後の長門裕之)であった。
これをきっかけに松五郎は吉岡大尉と、その夫人よし子(園井恵子)に愛され、敏雄少年からも肉親ででもあるかのように慕われた。しかし、吉岡大尉は演習の時に引いた風邪が元であっけなく死んでいった。

松五郎の痛ましいほどの奉仕生活
夫人のよし子は、敏雄が気の弱いことを心配して松五郎を頼りにする。松五郎の痛ましいほどの吉岡家に対する奉仕生活がはじまった。やがて敏雄は小倉中学4年になり、中国青島陥落を祝う提灯行列の日に、他校の生徒と喧嘩をし、母をハラハラさせるが、松五郎は逆に喜び喧嘩に加勢する。
その後、敏雄(川村禾門)も高等学校へ入学。敏雄とも寮生活で疎達になっていた。成長していく敏雄にくらべ、近頃は、めっきり老い込んで来た自分を感じる松五郎だった。
松五郎はこの年になるまで女房を貰ったこともなかった。そうした空虚さを充そうという欲求で、吉岡夫人と接してきたのだろうか—。時が過ぎ、敏雄が小倉祇園太鼓の日、五高の先生(戸上城太郎)を連れて帰省した。
これが祇園太鼓の流れ打ちだ!
本場の祇園太鼓を聞きたがっていた先生の案内役をした松五郎は、山車に乗り、祇園太鼓を叩き始めた。ドドンという音。「これが祇園太鼓の流れ打ちだ!」。
本場・太鼓を初めて聞く群衆が一斉に松五郎を見る、見る。「今度は勇み駒だ!」と言うと、松五郎は片肌脱いで、激しく太鼓を打ち鳴らす。「今度は暴れ打ちだ!」。急ピッチで、バチは空間に弧を描き、まさに一上一下、遊戯三昧のバチ裁きで町中にその音を響かせた。
本場、太鼓を打ち鳴らす者は、誰もいないと思っていた祭りの世話役もびっくり、周囲の者に、聴いておけ「これが本場の祇園太鼓だ」と。
この太鼓のシーンが圧巻だ。この映画以来、表でメロデイーを打ち、裏でリズムを取る「裏打ち」が流行り、日本の太鼓の叩き方が変わったという。敏雄が帰った数日後、松五郎は吉岡家を訪ねる。吉岡夫人への思慕はつのっていた。
「ワシの心は汚い」、「奥さんにすまん!」と一言
じっと焼きつくように未亡人を見つめる松五郎、夫人はハット息を殺した。松五郎は夫人に対する思慕を打ち明けようとするが、「ワシの心は汚い」、「奥さんにすまん!」と一言言って平伏。立ち上がると風のように去っていった。凍りついたように端座していた未亡人、やがてハラハラと涙を流す。
その後、時が過ぎ、松五郎は酒に溺れ、しんしんと降る雪の中をさまよい、倒木につまずき倒れてしまう。走馬灯のように敏雄、吉岡夫人の想い出が駆け巡る、微笑みにも見える松五郎の顔と身体に真っ白く積もる雪、雪。その中で松五郎は60余年の生涯を閉じた。
死後、結城重蔵親分と宇和島屋の主人、よしこ夫人が松五郎の遺品を明けた。その中には、よし子夫人と敏雄名義の預金通帳と、吉岡家から貰った、沢山の祝儀袋が手も付けずに残してあった。「松五郎とはそんな男だョ」と感慨深げにつぶやく結城。その横には泣き崩れるよし子夫人の姿があった。 当初、この作品の主役を市川歌右衛門や大河内傅次郎などで計画されたこともあった。しかし、車引きの話は会社の看板に合わないなどの理由で実現しなかった。阪妻に廻って来たのは大映発足の翌年だった。しかし、阪妻は一度断っている。興行的にも当たる可能性の少ない素材だった。しかし、稲垣浩は再三再四出演依頼を繰り返した。 (※その二へつづく)

