
1951(昭和25)年〜1955(昭和29)年
監督、俳優を縛る、5章5条からなる協定
ワイド化が進んでいく時代だったが、日本では映画製作会社同士で、1954(昭和29)年9月10日、とんでもない協定が結ばれた。5章5条からなる協定で、要約すると次の2点が、その主なものだった。
各社専属の監督、俳優の引き抜きを禁止する。監督、俳優の貸し借りの特例も、この際禁止する。
この協約に参加したのは、松竹、大映、東宝、新東宝、東映の5社だったので「5社協定」と呼ばれた。
戦後、映画興行などを行っていた日活が、堀久作社長の下で戦前以来の映画製作の再開に動き出し、東京調布市に多摩川撮影所を建設すると、5社から監督、俳優の引き抜きを行おうとした。

これに対抗して結ばれたのがこの協定であり、名目は映画会社同士の、俳優引き抜き防止であったが、真の目的は日活封じ込めである。大映社長の永田雅一の主導で5社協定審議会が開かれ決められた。
しかし、1954(昭和29)年に映画製作を再開した日活は、その後、石原裕次郎、小林旭、吉永小百合、浅丘ルリ子ら、独自で新人スターの発掘に成功し、男性アクション路線も当たり安定してきた。それにより5社協定の当初の目的が失われる。
スターを貸さない、借りない、引き抜かない
しかも1958(昭和33)年9月には日活も協定に参加し、6社協定になる。この6社「スターを貸さない、借りない、引き抜かない」の3ない主義を打ち出した。1961(昭和36)年には新東宝が倒産し、再び5社協定となる。
この協定により監督、俳優は他社出演が閉ざされ、会社ともめたり、涙をのむ事件がたびたび起きた。
東宝の専属監督だった黒澤明は、協定以前に大映専属女優・京マチ子主演の「羅生門」を撮っていたので、東宝作品でも、京マチ子の起用を熱望したが、大映がこれを許さず、結局実現しなかった。
松竹専属の小津安二郎は、大映の女優・山本富士子と「彼岸花」。東宝専属の司葉子と「秋日和」を撮ったが、それぞれの会社から「自社の作品を1本撮ること」を条件につけられ、結局1959(昭和34)年「浮草」(大映)と、1961(昭和36)年「小早川家の秋」(宝塚映画)を撮った。

前田道子と山本富士子事件
しかし、この5社協定、俳優の場合は大変だった。その代表格が新東宝の前田道子と大映の看板女優・山本富士子だった。

1957(昭和32)年、新東宝の女優・前田道子が社長・大蔵貢から不当な扱いを受けたので、東京都の内部部局である人権擁護局に訴え抗議した。
前田はその代償として5社協定で映画界から干され、さらにテレビ界にも圧力が加えられ、事実上、女優生命を絶たれるという事件が起きた。
この話、少し詳しくみてみよう。前田道子は昭和30年代のグラマー女優として人気絶頂で、新東宝で主演作を撮っていた。その中で1957(昭和32)年「続・若君漫遊記・金毘羅利生剣」(監督・加戸野五郎)の撮影で、階段を登るシーンがあり、監督から「裾をまくれ」と指示された。前田は「えーっ、なぜ?」と思い、必然性が有りませんと監督に疑問を投げる。
新人女優が生意気だ
それで撮影がストップ。そうしたら、「よし早飯にしよう。前田君もよく考えておいて」という監督の言葉で昼食になった。前田はそれなりに考えて、午後セットに入ったが誰もいない。
それからいきなり「新人女優が生意気だ」といわれ、作品から降ろされる。併せて撮影に支障をきたした損害賠償として100万円の請求が来る。
前田道子の恋人(不倫相手)だった、新東宝所属の志村敏夫監督も、道ずれとして首を斬られてしまう。志村は妻帯者で前田の「女真珠王の復讐」などを撮り、新東宝の第一線監督で多くの作品が当たっていた。
不当な扱いに、社長・大蔵貢に直訴するも、「お前は女優だと思っているのか、裸になるから使えるのに、何いうか」と一括されてしまう。
新東宝のワンマン社長
この新東宝社長・大蔵貢は自社の女優を手当たり次第に物色していたため、物議を醸していた御仁で、1960(昭和35)年、「女優・高倉みゆきを妾にした」と騒がれたが、「妾を女優にしのだ」と、豪語するワンマンぶりだった。「湯の町エレジー」でお馴染じみの、歌手・近江敏郎は実弟に当たる。
不当な扱いに我慢していた前田は、翌年、1958(昭和33)年7月25日、新東宝との契約が切れたので、会社にフリーで仕事をする事を伝える。
しかし新東宝は、新人登録期間の5ヶ年未満は、6社協定に抵触するとして、他社出演は認めなかった。また、内定したテレビや舞台出演の、事前停止が相次いだ。そのため東京都法務局人権擁護部に、「6社申し合わせによる締め付けは人権じゅうりん」と提訴したのだ。
芸能界を完全引退
その後、9月22日、人権擁護部の斡旋で新東宝から、新人登録抹消を受けて完全フリーになる。
しかし、前田道子を受け入れてくれる映画、テレビ、舞台はなかった。前田はその後、志村監督と台湾で1963(昭和38)年「女真珠王の挑戦」と「悠風悠雨心腸」を撮った。
実は台湾では前田の「女真珠王の復讐」がヒットしていた。その続編である。また1964(昭和39)年テレビ映画「江戸忍法帳」(監督・志村敏夫)に主演したが、長くは続かなかった。
その後、全国のキャバレー回りが続く。恋人の志村監督が、1980(昭和55)年逝去したので、芸能界を完全引退。以降、どん底の生活を送る。サウナの受付や掃除婦、食堂の皿洗いもやった。渋谷のクラブで働き、知人の援助で赤坂に小さなお店を持ち、ようやく落ち着いた。
何とも後味の悪い話で、「前田道子裾まくり事件」として、映画界で語り継がれている。この事件に、映画ジャーナリストは沈黙した。人権擁護の問題から、もっと世論として取り上げて良いと思うが、ハダカ女優にたいする軽視があったのか、ジャーナリストの資質が問われた。
第1回ミス日本日本に選ばれた
山本富士子は第1回ミス日本に選ばれた3年後、1950(昭和25)年に、女優が欲しい松竹と大映が争奪戦を展開し、大映に入社した。契約内容は、1本当りのギャラはスライド制とし、1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と意外と安かった。但し、3年たって1人前になったら自由契約が条件だった。

デビューは同年、4月29日公開の「花の講道館」(監督・森一生、主演・長谷川一夫)で、これが当った。その後「金色夜叉」、「婦系図・湯島の白梅」、「夜の河」とヒット作が続く。
大映の看板女優となった
1956(昭和31)年「夜の河」でNHK主演女優賞、1958(昭和33)年「彼岸花」で第9回ブルーリボン賞。1960(昭和35)年「墨東綺壇」で31回キネマ旬報主演女優賞など、演技面でも高い評価を得、大映の看板女優となっていった。
1963(昭和38)年1月、大映との契約更改で、大映2本、他社2本出演の契約を申し入れた。前回の契約で年間2本の他社出演契約を守ってもらえず、年1本に留まっていたので、不満を抱き大映社長の永田雅一に約束の履行をせまった。
しかし大映は「専属かフリーか、どちらかを選べ」と態度を硬化した。山本はフリーを選ぶが、大映の社長・永田雅一は烈火の如く怒り、彼女を解雇し五社協定にかけると脅かした。
たった1人で映画会社の妨害と闘った
これに対し山本は「そんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。自分の立場は自分で守ります。」と語り、詫びを入れろとの周囲の声にも耳を貸さなかった。
永田雅一は一方的に解雇し、五社協定を盾に、映画やテレビ、舞台から締め出した。山本はその後、一度も映画に出演していない。たった1人で映画会社の妨害と闘った稀有な女優である。
しかし、後年テレビドラマに出演を求められ「山本富士子アワー」等の作品に出演。演劇にも新境地を開き、演劇界で多彩な演目を演じ、大量観客を動員した。
この事件は当時の国会でも取り上げられ、世間でも「人権じゅうりん」と非難の声が上がった。能力が有り、多くのファンに支えられている女優が、こうした理由で活動の場を閉ざしてしまう。日本映画界の体質には、唖然とさせられる。そんな時代だった。

