
1966(昭和41)年〜1988(昭和63)年
〈ソ連機が函館空港に強行着陸〉
9月6日、午後、航空自衛隊のレーダーが北海道・積丹半島沖に航空機を捉え、領空侵犯のおそれありと、F14ファントム戦闘機2機をスクランブル発信させた。しかし、その後、レーダーから航空機は消え、午後1時48分、領空侵犯機が函館空港に緊急着陸した。
航空機はソ連のミグ25戦闘機、操縦士はベレンコ中尉と判明、ベレンコはアメリカへの亡命を希望した。ミグ25は当時ソ連の最新鋭戦闘機とされ、その性能は最高の軍事機密とされていた。
日本政府はミグ25を解体調査することにし、アメリカの協力を要請して徹底的に調査。ソ連はこれに猛烈に抗議したが、機体が引き渡されたのは調査が終わった11月12日だった。この事件で、日本のレーダー網の不備が暴露され、批判の声が上がった。
〈毛沢東死去、新たな時代へ〉
これまで中国を牽引してきた、周恩来首相(1月8日)、朱徳全国人民代表大会常任委員長(7月6日)、毛沢東首席(9月9日)、がこの年、相次いで逝去。
また7月28日、河北省唐山にマグニチュード7.8の直下型巨大地震が発生、公式記録で24万人を超す大惨事になった。建国から27年、文化大革命は終わりを告げ、中国は新しい時代を迎えることになった。
〈ロッキード事件〉
2月、米ロッキード社のコーチャン副会長が、米上院多国籍企業小委員会で、日本への航空機売り込みに際して、日本政府高官に30億円を贈賄したと証言した。日本国民と検察当局は「ロッキード事件」を初めて知ることになる。事件発覚後、今太閤の田中角栄・元首相が収賄容疑で逮捕され政界は大荒れになった。
2月6日、野党四党が衆議院予算委員会でロッキード問題を追及。16日、小佐野賢治・国際興業社主、若狭得治・全日空社長、渡辺尚次・同副社長を証人喚問。17日には丸紅幹部四人も証人喚問された。

〈その他の出来事〉
1月6日、京都市の平安神宮本殿などが全焼。新左翼過激派の時限発火装置による放火だった。3月2日、札幌市の北海道庁ロビーで時限爆弾爆発、死者2人、重軽傷95人が出る事件が起きた。犯人は東アジア反日武装戦線の犯行だった。
昭和51年「角川映画」誕生!
大映社長・永田雅一が死去したのは、1985(昭和60)年10月24日のことである。享年79歳。その死を報道した多くは、彼を「風雲児」と称して悼んだ。その永田雅一が、映画界から完全に姿を消すのは1976(昭和51)年であったが、この年、映画界は奇しくも新たな風雲児を迎えることになる。
角川春樹の登場である。この角川春樹の登場により日本映画界は、初めて外部からの進出によって、改革を迫られることになる。

映画製作の母体となる角川春樹事務所は、この年1月に設立され、資本金は600万円。この内、角川春樹の手持ち資金はたったの200万円。残りは友人からの協力だった。
彼のプロデュースした処女作「犬神家の一族」は、東宝・松岡社長の強力なバックアップの元、東宝が配給と興行を引き受けた。製作費に2億2千万円の巨費を投じた。
原作・横溝正史、監督・市川崑、出演・石坂浩二、あおい輝彦、高峰三枝子などの布陣であった。完成披露パーティーは、10月5日夜、東京プリンスホテルで行われた。
闇の中で、白木の棺が運び込まれた
千人の招待客が見守る中、突然、会場のあかりが消され、白塗りの舞踏手が2人、強いライトを浴びて狂ったように踊り始める。あまりに奇異な光景に、思わず声を上げる女性もいたが、その闇の中で、白木の棺が運び込まれたのに気づく者はいなかった。
人々が気づいたのは、白木の棺が静かに会場の中央に立てられた時だった。その棺を蹴破って登場したのは、不気味な仮面をかぶり、白のタキシードに着飾った角川春樹プロデューサーだった。その夜から、彼はスターになった。
劇的なデビューだったのは、プロデューサーの角川春樹だけではなかった。肝心の映画の方も1976(昭和51)年11月13日公開され、40日間で90万人の観客を動員するという大ヒットで、最終的には17億円の配収を上げた。

