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日本映画100年史

本【日本映画100年史】をリアルタイムで加筆していく、ライブブックブログ!

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文部省選定、海軍省後援の誤魔化し

2019.09.26 by 西川昭幸

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1935(昭和10)年〜1944(昭和19)年

映画配給・紅白の2系統に 

1942(昭和17)年、映画業界では「まもなく、映画を作れなくなるんじゃないだろうか…」という絶望的な声がささやかれていた。映画に対する規制も、当初のような「健全な社会性へ導く」という、一応誰もが納得できるというタテマエがなくなってしまい、完全に戦時カラーとなった。

札幌のエンゼル館などは「エンゼルなどという敵性語はけしからん」と、いちゃもんをつけられ館名を変えよとのご命令。仕方なく「大勝館」という、景気のいい館名に変えた。

米空軍が、日本本土を初爆撃したこの年の4月、映画の配給は、社団法人映画配給会社(映配)が作られ、全国の映画館を紅白2系統に分けて、フィルムを配給することになった。

併せてこの時期、劇場のスクリーンカバーには日の丸をつけ、開館の時は館主か支配人が国民服を着用、宮城の方を向いて、観客一同と最敬礼してから上映するという、笑えないセレモニーまで義務づけられてしまう。

「陸軍」の画像
陸軍(昭和19年)

紅白系統に入らなかった映画館は、2番館として生き残れたのは、まだ良い方で、強制休館された館も多かった。「2系統に分けたといっても、紅系と白系がそれぞれ2週間ずつ、同じ映画を上映させられる。それが済むと、紅白で映画を取り換えてまた2週間上映。なんのことはない、同じ映画を、4週間やっているだけのことだった」。

しかし妙なもので、それでも客足が落ちなかった。結局、観客はニュース映画を見たかったからで、興行形式が誤魔化しであっても、ニュースは当時としては大事な情報源の1つだった。

軍部のプロパガンダ強まる 

1943(昭和18)年5月、アッツ島を守備していた山崎部隊が全滅。9月には同盟国のイタリアが無条件降伏し、それまでのような、偽りの戦勝報道が影を潜めるようになった。

戦争もそろそろ、敗北の色をみせ始めていた。「欲しがりません、勝つまでは」などという、戦争標語が氾濫したのは、この頃のこと。

一時禁止されていた映画の新聞広告が、この時期にどういう訳か復活している。これ実は、映画を戦力増強に使えると、軍部が踏んだことによるものだ。もちろん戦争映画の宣伝である。「大陸新戦場」「愛機南へ飛ぶ」「ハワイ・マレー沖海戦」などといった映画ばかりだった。

「無法松の一生」の画像
無法松の一生(昭和18年)

これらの映画の広告には、監督や俳優よりも、陸軍航空本部監修、情報局選定国民映画、文部省選定、海軍省後援という大きなゴシック文字が必ずついた。しかし、同じ情報局国民映画といっても、黒澤明監督のデビュー作品で、傑作と評価の高い「姿三四郎」などもこの中に有った。

木下恵介監督のデビュー作「花咲く港」も1943(昭和18)年7月29日公開で、やはりこの年だった。だが、こうした切羽詰った時期につくられた映画にも、名作はあった。その代表作が、稲垣浩監督、阪東妻三郎主演の「無法松の一生」だ。軍人未亡人に密かな愛情をよせる、車曳き松五郎を描いた作品だが、軍部の検閲により徹底的にカットされ、「切られた名作」とも呼ばれていた。

戦後リメイクされた三船敏郎主演の同作品と比較すると、どれほどカットされていたか良く分かる。松五郎が「もし、軍人になれば、少将にはなっただろう。」といわれるセリフなどは、何処にもなかった。映画の流れも、カットのせいで全体に不自然で、断末魔ともいえる軍部のヒステリックな絶叫が聞こえてくるようであった。

戦況悪化!映画館停電続きでお手上げ 

1944(昭和19)年、札幌の映画館は全部で11館あった。このうち紅白系の4館は、ニュース映画を中心に客足は悪くなかったが、全館邦画を掛けていた。洋画ファンにとっては寂しい時代だった。洋画はたまにやっていた程度。それも、ドイツとかイタリアなど、日本と同盟国の映画ばかりだった。

そんな状態でも、完全な休館には追い込まれていなかったから、まだ良い方だった。強制的に休館させられた劇場は、軍に接収されて、パラシュートの傘つくりの工場と化してしまった。

戦況は悪化の一途をたどっていた。サイパンが玉砕し、敗戦の気配は、ますます濃厚なものになって行った。商店は売る品もなく雨戸を下ろし、たまに配給があっても、30分もすれば品切れとなる始末。

学生の姿がめっきり減った大学の構内や公園は畑になった。それでも足りずに街の通りにまで、食料不足を補うための畑ができた。こうした状態で人々の心は、荒廃しない方が可笑しい時代になっていた。

東京大空襲と原爆投下

東京の上空にはB29が、その不気味な姿をさらし、おびただしい量の爆弾を、ハトに餌でもやるようにバラまいていった。この東京大空襲で日没後の映画興行は禁止となってしまう。

学童疎開が始まり、劇場や料亭は閉鎖される。若者は神風特攻隊となって続々と散華し、閉鎖された大劇場では白鉢巻きの乙女たちが、風船爆弾という珍妙な兵器を一生懸命作っていた。

こうした時期、エノケンの「三尺左吾平」や、一体、どこから紛れ込んできたのか、ヨーロッパの音楽映画「維納(ウインナ)物語」などの、異質な作品が上映されていた。映画館は、節電のため時々休館しながらも、細々と興行を続けていた。

そうした中、1945(昭和20)年3月9日東京大空襲に続き、8月6日広島市に原爆投下され死傷者14万人が出て敗戦が濃厚になって行く。8月9日長崎にも原爆投下された事を契機に8月15日終戦を迎える。

Filed Under: 昭和(初期) Tagged With: 映配, 稲垣浩, 阪東妻三郎, 黒澤明

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著者紹介(西川昭幸)

アバター1941年北海道生まれ。東洋大学社会学部卒。
映画会社勤務などを経て現在、公益社団法人理事。
<主な著作>
「北の映画物語」(北海タイムス社)、
「美空ひばり公式完全データブック 永久保存版」(角川書店)、
「活字の映画館 明治・大正・昭和編」(ダーツ出版)、
「日本映画100年史」(ごま書房新社)、
「美空ひばり最後の真実」(さくら舎)、
「昭和の映画ベスト10、男優・女優・作品」(ごま書房新社)

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