
NEMO ニモ(東宝東和)

宮崎駿も関わっていた日米合作アニメ映画
「NEMOニモ」は、最初から欧米進出を狙った日本アニメのパイオニア的作品である。日本では1989(平成元)年7月に、夏休みの家族向けアニメーション映画として公開された。制作費は破格の約55億円で、公開時は、日比谷映画で国内唯一の70mm版プリントが上映された大作であるが、興行収入は9億円前後に終わった。本作公開から2週間後には、「魔女の宅急便」が公開されている。実は当初、本作には宮崎駿も関わっていた。
新人育成で、あの名作が生まれた!?
そもそもは、日本国内でのアニメビジネスに限界を感じた、東京ムービー社長の藤岡豊がアメリカ進出を夢想したことがきっかけである。そのためには新たなスタジオが必要と考え、フル・アニメーションを描けるアニメーター育成を目的に1975(昭和50)年に、テレコム・アニメーションフィルムを設立。アニメの経験がない新人を採用し、ベテランアニメーターの大塚康生を使って新人教育を行った。同社は手始めに、宮崎駿監督の「ルパン三世 カリオストロの城」や高畑勲監督の「じゃりン子チエ」などを制作、素人だった新人たちを一人前に育て上げた。
日本で言えば、原作は「のらくろ」のような古典マンガ
ところで、なぜ、「NEMOニモ」を原作に選んだのか。それは、原作がアメリカでは伝説的な漫画の名作だったからである。1905(明治38)年から1913(大正2)年にかけて、それまでにない画期的な漫画作品として、ウィンザー・マッケイによる「夢の国のリトル・ニモ」がアメリカの新聞の別刷である日曜版に掲載された。それは、1ページをまるまる使ったフルカラーであり、主人公の男の子・ニモが眠りにつき、夢の国で奇想天外な冒険をして最後にベッドで目覚める、という夢落ちパターンが毎回繰り返されるショートショート・ストーリーだった。当時は、まだミッキーマウスのような有名キャラクターが皆無のため、ニモの知名度は抜群で、「これがアニメ化されたら、ミッキーマウスよりもよっぽどヒットするだろう」と云われていた。だから、アメリカ進出を失敗できない藤岡豊がこの原作を選んだのだ。

最初は、ジョージ・ルーカスにプロデューサーを依頼
本作は、日本とアメリカの合作で進められ、日本側のプロデューサーには藤岡豊が就任し、消費者金融のレイクから出資を受け、資金調達を行った。藤岡は、アメリカ側プロデューサーをジョージ・ルーカスに依頼するが、「スター・ウォーズ」と「インディ・ジョーンズ」の新作で忙しいルーカスは謝絶し、その代わりに、「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」を製作中のプロデューサー、ゲイリー・カーツが就任した。しかし、これが本作の失敗の原因であり、現場に混乱を招く事態となった。
予算度外視の完全主義者
カーツはプロデューサー絶対主義者で、作品をコントロールしようとするタイプである。作品の主導権を手放なさず、予算も惜しまないので、後に製作費の超過やスケジュールの大幅な遅れでルーカスと衝突し、ルーカス・フィルムを去ることになったくらいである。そんなカーツだからこそ、スクリーンコンセプトをSF作家のレイ・ブラッドベリに依頼し、合弁会社のアメリカ法人キネトTMSを設立。「ナイン・オールドメン」と呼ばれるディズニーの長老アニメーター、フランク・トーマスとオーリー・ジョンストンを顧問とし、フル・アニメーションができる日本人スタッフを育成するための特別体制を組み、メインスタッフとして高畑勲、宮崎駿、大塚康生、近藤喜文、友永和秀、山本二三らを招聘して日米を往復させた。
準備段階で作品を引っ掻き回された結果・・・
当初は、日本側監督の候補に高畑と宮崎が予定されていたが、それぞれカーツと衝突して降板。日本側演出が不在のまま、準備期間が2年と長期化して、肝心の作画作業に入る前に45億円の製作資金が底を突き、制作は1984(昭和59)年8月にいったん中断、3年後の1987(昭和62)年にレイクが10億円の追加出資に応じた時、藤岡は真っ先にカーツとの契約を解除し、スタッフを変更して、ようやく作画作業をスタートさせた。しかし、最初のプロデューサー選びの失敗が尾を引き、作品は大惨敗。藤岡は責任を取り、東京ムービー関連の全ての権利を手放し、業界から引退したのであった・・・。
パイロットフィルム(近藤善文と友永和秀)
パイロットフィルム(出崎統と杉野昭夫)

