
1966(昭和41)年〜1988(昭和63)年
「男はつらいよ」の興収を支えた併映作品
1974(昭和49)年12月28日公開の「男はつらいよ 寅次郎子守唄」(監督・山田洋次、マドンナ・十朱幸代)が、興収ベストテン2位に入った。
「男はつらいよ」シリーズが、興収ベストテンに登場するのは、1971(昭和46)年12月29日公開の「寅次郎恋歌」(第8作・マドンナ・池内淳子)からである。それ以降、昭和48年の「寅次郎忘れな草」(第11作)、「私の寅さん」(第12作)を除き、毎年、ベストテンに入る常連となった。

最後の作品となった、1996(平成8)年12月23日公開の「寅次郎紅の花」(第48作、マドンナ・浅丘ルリ子)まで23年間続いた。驚異である。
このシリーズは確かに強かった。しかし、邦画特有の2本立て興行の、併映作品が強力であった事を忘れてはならない。
第4作から、当時人気があった、ハナ肇「為五郎」シリーズ(監督・山田洋次)が付き、第8作からは人気絶頂の「ザ・ドリフターズ全員集合」シリーズが第16作まで続いた。
この作品は人気があった。後半になる第40作から「釣りバカ日誌」が登場。更に強力セットとなった。寅さん映画の興収を支えて来たのは、こうした併映作品が強かったことも記しておきたい。

千葉真一、空手映画で世界へ
カンフー・ブームで日本でも空手映画が盛んに作られた。ブームの中で、何人かの空手スターが誕生する。しかし一躍浮上したのは東映の千葉真一であった。自分で企画した空手映画がヒットし“2億円スター”となった。
そのきっかけは、1973(昭和48)年5月、夫人(女優・野際陽子)とのヨーロッパ旅行だった。
「どこへいっても香港製の空手映画ばかりで、これがまた凄い人気。びっくりしました。それで、帰って来てすぐに空手映画を作ろうと、企画を出したのです。」(千葉真一)
こうして作られたのが「激突!殺人拳」(監督・小沢茂弘)。ブルース・リーの「燃えよドラゴン」に少し遅れること2ヶ月、1974(昭和49)年2月2日に封切られる。これが、封切り段階の配給収入で2億円以上を稼いだ。
東映で2億円クラスを稼げるのは、当時では鶴田浩二、高倉健、菅原文太、梶芽衣子の4人くらいのもので、続く5指に入ったわけだ。驚くのはその2ヶ月後の4月27日、素早く「殺人拳2」(監督・小沢茂弘)を公開した。東映は期を見る事に長けていた。

その後、千葉真一主演の空手映画が続々と続く。「直撃!地獄拳」、「逆襲!殺人拳」、「直撃地獄拳・大逆転」、「少林寺拳法」、「けんか空手・極真拳」、「激突!合気道」、「けんか空手・極真無頼拳」、「子連れ殺人拳」、「激殺!邪道拳」、「空手バカ一代」など。
もともと千葉真一は日本体育大学で器械体操をやっていて、オリンピックを目指していたスポーツマン。それが学生アルバイトで腰を痛め、涙を呑んで大学を中退し、東映へ入社する。
その後、東映の若手スターとして数々の作品に主演。1968(昭和43)年から始まったテレビ番組「キーハンター」(TBS)では爆発的な人気になり、俳優部門のブロマイド売り上げが4年連続ナンバーワンの人気俳優になった。
空手映画との出会いでもあった
千葉は、東映に入る前から極真空手・大山道場の門下生で既に初段の腕前で、そうした時の空手映画との出会いでもあった。極真空手とは大山倍達が興した、実戦空手で寸止めが無いので、通称ケンカ空手とも言われる。
千葉は1977(昭和52)年に極真空手の日本代表として、ハワイで元・アメリカ東海岸空手チャンピオンのグレック・カーマンと対戦しKO勝ちを収めている。この時は「空手バカ一代」(監督・山口和彦)の公開前で、良い宣伝になった。1984(昭和59)年1月、昇段審査をうけて4段に昇格した。空手の4段は柔道の5段〜6段に匹敵する。
大好評のヤクザ映画「仁義なき戦い」シリーズも完結編を迎え、そろそろヤクザ映画も下火になっていた東映にとって「激突!殺人拳」は久々のヒットだった。アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、カナダの映画会社が買い付けに来た。
同年11月12日、アメリカ中南部の都市一八館で上映し、3週間でベスト5に躍り出て千葉の代表作となった。この時、配給会社が千葉真一を「サニー・チバ」と主演者名を替えた。アメリカで権威ある総合情報誌「バラエティ」でもこの出来事を取り上げた。
「空手=サニー・チバ」
同紙が初めて日本映画を掲載し話題になった。外国人の映画評は、「ブルース・リーの舞踊劇的なカンフーと違い、ワザと力も、より本物に近く、迫力がある」だった。
続けて製作した3作目、1974(昭和49)年8月10日公開の「直撃!地獄拳」(監督・石井輝男)は、高倉健主演の「三代目襲名」(監督・小沢茂弘)との併映で、配収4億1,700万円を上げ、その年の配収記録ベスト5に入り、アメリカではビデオが10万本以上売れた。
当時の欧米では空手とカンフーを区別することが無く「カンフー=ブルース・リー」というイメージも千葉主演の格闘映画以降は「空手=サニー・チバ」と言うのが欧米では一般的認識となった」(アメリカ・バラエティ誌)。
この強い千葉真一。1990(平成2)年2月5日、自身が監督した「リメインズ・美しき勇者たち」(松竹配給)のキャンペーンで福岡へ行った。筆者も宣伝担当していた。その夜、仕事も終わり、3人でクラブで飲んでいると、後から来たヤクザに絡まれた。
4〜5人が執拗に絡んで来る
「おい!千葉こっちにきい〜や。今日、寄せ場(刑務所)から出てきたばかりや。お祝いをしてるんや」と言う。兄貴の言葉で4〜5人が執拗に絡んで来る。ヤクザに応じない千葉がされる。
一触即発が有るかなと心配していた筆者に、千葉が耳元で福岡の知人に電話してくれという。筆者も知っている人なので、急遽、知人に来てもらい、事は収まった。緊迫する場で、知人が到着するまでの時間がやけに長く感じた。
知人もその筋の人である。「あの組の者は危ないのでホテルまでご一緒します」と、ボディーガード2人がホテルまで送ってくれた。
彼のこの事件の対応は、怒ることなく冷静で、態度は毅然としていた。俳優はいろいろあるんだと話していた。でも5人は倒せる?とバカな事を聞くと、いけるかなと笑っていた。映画「直撃!地獄拳」のように成らなくて良かった一幕である。

