
1935(昭和10)年〜1944(昭和19)年
映画を国策宣伝に利用
1939(昭和14)年9月、ナチスドイツがポーランドに侵攻して以来、ヨーロッパ全土が再び戦場と化していたが、この大戦で、軍部は映画を敵国侵略の有力な武器として利用した。

表面的には、自国参戦は正義のためとし、相手国の不当な態度を非難し、国民の士気を鼓舞しようとした。映画を最も巧みに国策宣伝に利用したのは、ナチスドイツである。また、イギリスでも、反ナチズムの映画を大量に作っていく。
1941(昭和16)年12月8日、日本軍はハワイのパールハーバーの急襲により、運命の太平洋戦争に突入した。この年、日本軍部は国民の士気を鼓舞するために映画を統制した。それまで純粋に映画に取り組んできた映画人たちは、否応なく、あるいは自主的に、国策映画づくりに協力しなければ成らなくなった。

そんな中、海軍省の至上命令で東宝製作、社団法人映画配給会社が「ハワイ・マレー沖海戦」(監督・山本嘉次郎)を公開したのが、1942(昭和17)年12月3日。内容は、1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃、12月10日のマレー沖海戦の大勝を描いた、国威称揚を目的とした作品だった。
情報局国民映画参加作品で、出演は藤田進、伊藤薫、原節子など。この作品はその年のベストワンになり、戦後は、東宝配給でリバイバル上映された。この年、アメリカ映画の上映が禁止され、ドイツ、イタリアなど、日本の同盟国以外の外国映画を見ることが出来なくなった。
映画会社も臨戦体制に組み込まれ、劇映画製作は、松竹、日活、東宝、新興(大映)の四社に統合されてしまう。製作本数も、各社に1ヶ月2本という、割当てまで決められる。
何から何まで統制づくしの業界は、フィルムの不足を補う苦肉の策として、俳優のアトラクション興行を行った。
俳優も映画が撮れず、身体の自由が効いたので、これが一種の流行的な現象となった。札幌の松竹座では、高峰三枝子が実演をやり、東宝では、古川ロッパ、清川虹子などを呼び、日活では、風見章子、それに竹久夢子なども来た。そんな具合に、ひきも切らさずにスターが札幌の舞台に登場するので、当局の機嫌は悪かった。

昭和17年「大映」誕生!
大映は戦時統制による「映画法」の制定で誕生した新会社である。創設のいきさつから、太平洋戦争の落とし子とも取りざたされた。創立当初「大日本映画製作株式会社」といった。
政府は当時劇映画製作10社(独立プロ5社を含む)を統合して、松竹、東宝の2社にする案を明らかにした。
理由は戦時物資計画による映画用フイルム(軍需用のため)の節減にあった。まさに日本映画史上の大革命であった。これに業界が猛反発。
早速、永田雅一(新興キネマ京都撮影所所長)を委員長に「対策委員会」を結成。政府と強硬折衝をかさねた結果、ようやく「3社」を認めさせた。それが大映である。
大映は「新興キネマ」と「大都映画」が合併し、日活が製作部門のみ現物出資という変則的な合体で、1942(昭和17)年1月27日、資本金10万円で発足した。
発足早々から苦汁をなめた
新会社は現金の流通資金がないので、毎月2本の劇映画配給が出来なく、発足早々から苦汁をなめた。会社を設立したは良いが、重役は現場で叩き上げの人ばかりで、いわゆる資本家、経営者がいない。
しかも合併した新興キネマから300万円、大都映画から50万円、日活には100万円の負債があった。さらに引き継いだ3社の従業員が3,500人。その内1,000人を整理する退職金が75万円以上を必要とした。
しかも撮影所を東西に6ヶ所持っていたので、1ヶ所、50万円ずつ製作資金を渡すと実に合計900万円余の資金を持って出発しなければならなかった。
したがって、その半額に相当する450万円の現金を持たなければ業務を開始することは出来ない。
大映には社長はなく、永田雅一が筆頭専務として采配を振るうしかなかった。
そうした中、会社は阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、嵐寛寿郎の4大スター共演を掲げた「維新の曲」(監督・牛島虚彦)を製作。1942(昭和17)年5月14日公開し、映画製作の第一歩を歩みだす。
経営的に問題山積の大映だったが、1943(昭和18)年、新社長に菊池寛を迎え、発足時に有った負債を2年間で完済し終戦を迎える。
戦後の大映
1945(昭和20)年、社名を「大映株式会社」と改める。敗戦後の統制撤廃で映画も自由配給になるが直営館網を持たない大映は東宝と提携する。しかしそれも長く続かなかった。更に大映に取って大きな衝撃は占領軍が出した「製作禁止条例」であった。
封建的忠誠心や生命の軽視等を謳歌していた時代劇は製作中止同様となった。そのため時代劇4大スターを誇る大映は、片岡知恵蔵の「多羅尾伴内」シリーズなどで現代劇に挑戦する。
いろいろな痛手の重なる大映だったが、その後、折からの興行ブームや東宝争議で作品が不足している市場に支えられ立ち直って行く。
1950年代になり、ベテラン俳優・長谷川一夫を重役に迎え、彼を大黒柱にしてプログラムを組み、ニューフェースや他社からの人材も惜しげも無く採用した。
後に大映の三大女優と言われる京マチ子、山本富士子、若尾文子を、そして市川雷蔵、勝新太郎を日本映画史に残るスターに押し上げた。更に他社の高峰秀子、岸恵子、鶴田浩二などの作品も多く送り出す。
1951(昭和26)年9月、日本で前年に封切られた「羅生門」(監督/黒澤明)がヴエネツィア国際映画祭グランプリを受賞。これ以降「雨月物語」(監督/溝口健二)、「地獄門」(監督/衣笠貞之助)、「山椒太夫」(監督/溝口健二)などが外国映画賞を取り話題を集めた。
しかしこの頃、映画製作を再開した日活が、大映スタッフを引き抜く事件が起きる。(大映はもともと日活の製作部門を組み込んだ経緯があり、移籍したスタッフの殆どは厳密には出戻りである。)そのためトラブルが絶えなかった。

