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日本映画100年史

本【日本映画100年史】をリアルタイムで加筆していく、ライブブックブログ!

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地方映画祭で“映画の火”を守る時代

2019.09.13 by 西川昭幸

1966(昭和41)年〜1988(昭和63)年

2つの「さっぽろ映画祭」

 第3回さっぽろ夏の映画祭が、1973(昭和48)年7月28日余り、札幌三越デパートで開催された。札幌映画協会主催、北海道新聞、北海道文化放送後援で、7月31日から1週間開催するというもの。

客足の減少に悩む映画興行界が、「斜陽産業」の汚名を返上しようと、映画の魅力を若者にアピールするのが狙いだった。しかし、初日は若者が集まって賑わいを見せたものの、その後はあまり人が集まらなかった。

予想したほど客の吸引力がなかった

これがたたったのか、結局第3回で、「さっぽろ夏の映画祭」は終了してしまった。もともとは、デパート側から出た企画だった。予想したほど客の吸引力がなかったということで「今年をもって中止」ということになった。

翌年は蝋人形展、その後は直接販促に結びつくということで物産展などが開催されているが、「さっぽろ夏の映画祭」が復活することはなかった。しかし、少なくとも映画協会にとっては、できれば今後も続けたい企画であった。

というのは、札幌映画協会には札幌市内のすべての映画業者が加盟しているというものの、邦画と洋画の業者が1つにまとまって催事を行うということは、これまでに1度もなかった。

このころになって、若干ではあるが入場客が増えていた。だからこれを機会にPRをし、もっと映画に親しんでもらい、併せて邦画・洋画関係の結束を図ることで、これもまた景気づけの一矢にと…。そんな願いが「さっぼろ夏の映画祭」には込められていた。

残念がる映画関係者が多かったが、その後、業界1つになって実施した企画は出ていない。

「さっぽろ映画祭市民委員会」結成

それから8年後の1982(昭和57)年5月、市民の各映画サークルが集まり「さっぽろ映画祭」が始動した。「札幌市に国際映画祭を作りたい」「札幌市民に普段見られない良い映画を提供したい」と大きな目標を掲げ、「さっぽろ映画祭市民委員会」が結成された。

2週間の開催期間に、ファンの選んだ洋・邦画の秀作、知られざる名画、ピンク映画、未公開秀作、8、16㎜ミリの自主製作映画など、映画ファンにとって見たくても、なかなか見られない映画を、一挙に上映しようというもの。

この種の上映会が全国的に開かれるようになっていた時期だったが、さっぽろ映画祭の場合は企画に幅広さがあった。しかし、裏を返せばそれだけターゲットが絞られていなかった。

映画の上映のほかに、ゲストを呼んだり、シンポジウムなどを行ったりした。母体となったのは「札幌映画サークル」「ビーチ・フラッシュ」「北海道キネ旬友の会」「シネ・ブラボー北海道」「ピンク映画友の会」「札幌学生映研連合」など六つのサークルだった。

しかしこの映画祭、会場は札幌市内の劇場を借り、毎年、開催していたが、1987(昭和62)年に一時中断。1995(平成7)年、名称を「さっぽろ映画祭リターンズ」と変えて再会。   

2000(平成12)年からは、開催時期を11月に繰り下げ「さっぽろ映画祭」に名称を戻し開催。しかし市民に深く理解されず資金難におちいる。結果、2008(平成20)年、通算20回を重ねた映画祭も頓挫、中止となった。

「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」

映画業界地図も変わり、市民の映画趣向などが、主催者とマッチングしなかった事が大きい。

併せて、1990(平成2)年「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」が開催され、国際色豊かなゲストとユニークな企画が映画ファンに歓迎された。

北海道に映画祭は2つ要らないと、「さっぽろ映画祭」が敬遠されたのも一因といえる。通俗的に言えば、一部の映画愛好会中心の「さっぽろ映画祭市民委員会」は、業界、一般市民、企業、自治体、媒体等と提携した運営が出来なかった。そのため、資金難にも直面した。そうした事で札幌は夕張に負けてしまった。

「夏の映画祭ポスター」の画像
夏の映画祭ポスター(昭和48年)

「さっぽろ映画祭」が第5回目を迎えた年の、1986(昭和61)年11月、函館市内11の映画館で組織している函館映画協会は、自主上映グループには劇場を貸さないことを取り決めた。

「自主上映会に客を奪われている。営業妨害だ」というのが理由。「一般封切りされない映画を、貸館料を払って自主上映することは、何の妨害にもならないはずである」と反発する声が強かった。

地方の映画祭、受難時代

札幌でも、「札幌シネマテーク」が誕生した1967(昭和42)年ころに、札幌映画協会がやはりフィルムの貸し出しを禁止したことがあった。

しかし、映画界も地方切り捨て化が進んでいたおり、映画館とファンがしっかり手を組んで“映画の火”を守っていこうとしている時代である。

函館映画協会が自主グループにイジワルをした同じころ、苫小牧や日高管内浦河町では、地元 劇場とファンが協力して映画祭を実行し成功させている。

しかし、そうした地方の映画祭は活動家のマンネリと資金調達、業界の不理解、映画を取り巻く環境の変化で自然淘汰されていった。一番大きな理由はテレビとビデオの普及であった。

Filed Under: 昭和(後期) Tagged With: 映画祭

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著者紹介(西川昭幸)

1941年北海道生まれ。東洋大学社会学部卒。
映画会社勤務などを経て現在、公益社団法人理事。
<主な著作>
「北の映画物語」(北海タイムス社)、
「美空ひばり公式完全データブック 永久保存版」(角川書店)、
「活字の映画館 明治・大正・昭和編」(ダーツ出版)、
「日本映画100年史」(ごま書房新社)、
「美空ひばり最後の真実」(さくら舎)、
「昭和の映画ベスト10、男優・女優・作品」(ごま書房新社)

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