
1951(昭和25)年〜1955(昭和29)年
〈テレビ放送開始〉
2月1日、NHK、8月28日、日本テレビがそれぞれ本放送を開始。戦後、焼け野原だった東京の街に、特需景気の効果で一筋の光が差し込んできた。しかし、庶民の衣食住はまだ満たされず、敗戦による外国人への劣等感が心の隅に残されていた。
そうした時、広告収入に頼る日本テレビが、スポンサー対策のため、繁華街の広場や大きな電気店等に「街頭テレビ」を設置した。一般家庭では購入できない価格なので、放送される番組に人々は目を凝らし一喜一憂し、街頭テレビに群がった。いよいよ日本にもテレビ時代が始まった。

〈スターリン逝去 〉
30年近くにわたって指導者の座にあり続けたソ連のスターリン首相が、3月5日脳溢血のため逝去。73歳だった。レーニンを継いだスターリンは、権力を集中させて独裁的国家を指導。第2次世界大戦を勝利に導くとともに、ソ連をアメリカと並ぶ超大国の1つにした。
その一方で、反対派を次々に粛清し、恐怖政治の嵐を吹き荒れさせた。その後、後継に指名したマレンコフ政治局員が首相となるが、フルシチョフが台頭し、9月に党第一書記に任命される。

〈沖縄で土地接収に武装隊出動〉
4月3日、対日平和条約第3条により、沖縄支配を合法化した米国は、沖縄の米民政府から土地収用法を公布し、徹底した軍事優先政策をとり、基地建設を推し進めた。いわゆる「銃剣とブルドーザによる土地強奪」である。
戦後米軍が勝手に使用し続けてきた軍用地に対しては、所有者の意思を無視して一方的な内容の契約を押し付け、新たに必要とする土地は、武装兵を出動させ、暴力的に接収した。
以後、1955(昭和30)年夏まで、住民による島ぐるみの抵抗運動や、農民の捨て身の抵抗を無視し、暴力的な土地接収が続発した。沖縄の本土復帰はまだまだ遠かった。
〈その他の出来事〉
4月19日、第26回衆議院総選挙で、「青年よ銃をとるな、婦人よ夫や子供を戦場に送るな」と叫んだ社会党の鈴木茂三郎委員長が国民の支持を得、総選挙で社会党が大躍進した。
7月16日、米カリフォルニア州ロングビーチで開かれたミスユニバース・コンテストで伊藤絹子が3位に入賞。東洋人の魅力と抜群のプロポーションが、新しい世代の代表ともてはやされた。また、前年放送のNHKラジオ・ドラマ「君の名は」が映画化され、真知子巻が大ブレークした。

