
1935(昭和10)年〜1944(昭和19)年
統制に次ぐ統制で「映画法」制定
1939(昭和14)年の札幌の正月興行は、大挙して実演が入っている。松竹座では、大船から笠智衆、水戸光子、斉藤達雄などが来た。東宝ではディック・ミネを呼んで、話題となった。大都映画からは、水島道太郎、琴糸路が来た。
けっこう華やかなものだったが、同年1月には、映画各社は夜間上映を申し合わせて中止していた。暗い足音が、ひたひたと近づいて来るのが、誰の目にも明らかだった。それはやがて、硬く重い、軍靴の響きに変わろうとしていた。

当時の映画監督やシナリオライターたちは、口を揃えたように、「少しも時代的な圧力は感じていない。感じていたとしても、それを弾ね返すだけの意思を持っている」。といっていたが、それは強がりではなかったろうか…。
「お加代の覚悟」「祖国の花嫁」「戦友の歌」「土と兵隊」「上海陸戦隊」「婦人従軍歌」「父は九段の桜花」などという戦争物は、当時の映画作家の仕事にほかならない。それも、内務省や軍部の圧力で、なかば強制的に作られたものとは違っていた。
その当時、ニュース映画や記録映画が、戦争をテーマにしながら異常なほど多くの作品を作っている。軍部や国家に対する協力意識がなければ、戦争物など、ぬけぬけと製作できるはずがなかったのだが……。

国策映画をつくるための法律
映画が一般大衆に与える影響の大きさを利用したのは、ドイツばかりではなかった。日本の政府もまた同じである。1937(昭和14)年の4月、政府はついに、ナチスを参考にした「映画法」なるものを国会に提出して、映画関係者を動揺させる。
内容は ①監督、カメラマン、俳優を登録制にし、不品行の者は登録を抹消する ②外国映画の上映を、週1本以下に制限する ③文化映画の強制上映 ④14歳未満の児童の入場制限 ⑤優秀映画に対する映画賞の設置などである。表向きは問題ないが、真意は、国策映画をつくるための法律だった。
統制と強制
1939(昭和14)年に決められた、映画の新聞広告の統制によって、翌15年からは、新聞の映画広告が規制された。新聞広告ばかりではなかった。ビラ、チラシの類も「無駄なものであるから一切まかりならぬ。」というキツイご沙汰で、新聞広告などは中止されてしまった。
ついで、平日の早朝興行も一切中止となった。1回の興行は、2時間半とされ、「映画は休日だけ」とか、「乗らずに歩け」などといった号令までかかる。これは、平日に映画館に入り、電車に乗って帰るような人間は、「非国民」とののしられたのである。
何とも、いやはや恐ろしい。また11月には入場税の引き上げが通告される。更に10月1日、道庁保安課は、全道各警察署に通達を出す。「ニュース映画を明年1月から必ず1本映写すること。実施しない場合は映画館の認可を取り消す」という強制的なものだった。
映画法の実施で、映画の製作や配給にも、内務省が全面的に関与し、すべては申請書によって厳重に審査されるようになった。そればかりではなかった。
キビシイ取り締まり
この年には、内閣情報局なるセクションが発足し、この中に「映画国策積極化部」というのが出来て、これまで内務、文部両大臣のキビシイ取り締まりを受けていた映画各社は、その上に情報局長官の監督まで受けるハメになり、情勢が変化したとして、映画法は更に改悪された。
映画界を覆う黒い影は、日本だけではなかった。世界的な傾向であり、イギリスやフランスでも、多くの映画人がアメリカなどに逃亡している。
フランスでは、監督のルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴィエ。俳優では、シャルル・ポワイエ、ジャン・ギャバン、ミシェール・モルガンなど。イギリスからも、アレクサンダー・コルダたちが続々と自国から脱出した。

