
1966(昭和41)年〜1988(昭和63)年
監督 深作欣二
深作は娯楽作品が多く、「仁義なき戦い」が出るまで、世間から余り評価されていなかった。
暴力的な作品を撮る監督のイメージが強いが、本人が戦争という巨大な暴力を体験した事で、「暴力を描く事で暴力を否定」する思想が根底にあった。

また、権力に対する懐疑心と抵抗は生涯続いた。作品の目線は、弱い者から見た社会を描き、ヤクザ映画も、社会からハジキ出された人間を好んで登場させた。
文芸作品でも「文芸アクション」と呼び、ウソの物語をいかにリアルに仕上げるかを、真骨頂にし、壇一雄を描いた「火宅の人」、与謝野晶子を描く「華の乱」でも、徹底した娯楽作品に徹し、日本アカデミー賞作品賞を受賞している。
深夜まで続く「深夜作業組」
筆者は公私共にお世話になった監督で、角川へ転職した後も、深作作品の「復活の日」「魔界転生」「里見八犬伝」などの宣伝関係でもお世話になった。仕事になると時間無視だった。
撮影現場ではテストやリハーサルが長く、24時間関係なく没頭し、深夜まで続くので「深夜作業組」と呼ばれていた。
1990(平成に)年2月10日、千葉真一監督「リメインズ・美しき勇者たち」(松竹)が公開されたが、この作品、ジャパンアクションクラブの20周年記念映画で監修が深作監督だった。そのときの現場は熱気で活気があった。
筆者は製作の一部と配給・宣伝に関わり、1ヶ月間北海道ニセコ町でご一緒した。その期間、色々な話が聞けたことが忘れられない。テニス、ゴルフ、東京では夜の街も一緒したり、俳優養成所の顧問もお願いした。
直木賞受賞作品の映画化
深作は娯楽作品が殆どだったが、ただ1作、シリアスな作品を撮っている。それは1972(昭和47)年3月12日公開の「軍旗はためく下に」(東宝)である。
内容はパブアニユーギニアでの“敵前逃亡処刑事件”を題材に、残された未亡人(左幸子)が、夫(丹波哲郎)の死の真相を探る過程を通して、軍隊の非人間性と戦争の不条理を描き出す、結城昌治の直木賞受賞作品の映画化である。
未亡人が生き残った人々から、それぞれ聞かされる話の違い、人肉を食い、国家や上官の卑劣さなども描かれ大作であったが、興行的には不入りだった。
その深作も、2003(平成15)年1月12日、前立腺癌のため72歳で逝去。惜しまれる死だった。1997(平成15)年紫綬褒章を受章する。

菅原文太の訃報が届いた
この原稿の執筆中だったが、高倉健の退社後、10歳間、東映を支えたスターだった菅原文太の訃報が届いた。哀悼の意を込め書き留めておきたい。
菅原文太は1933(昭和8)年仙台生まれ。早稲田大学を中退後、ファッションモデル等を経て、1956(昭和31)年10月30日公開の東宝「哀愁の街に霧が降る」(監督・日高繁明)の端役で俳優デビュー。
その後、新東宝にスカウトされ19本(主役7本)の作品を撮るが、新東宝が1961(昭和36)年倒産。松竹に移り「男の顔は履歴書」(監督・加藤泰)など46作品に出演。しかし、松竹での主役は1本も無かった。
腐っている菅原に安藤昇が声をかけ、東映に移籍する。東映の第1回出演作品は、1967(昭和42)年12月23日公開の、高倉健主演「網走番外地 吹雪の斗争」(監督・石井輝男)で、これも端役だった。
「現代やくざ 与太者の掟」で主役を掴む
2年後の1969(昭和44)年「現代やくざ 与太者の掟」(監督・降旗康男)で主役を掴む。その後、同年「関東テキヤ一家」(監督・鈴木則文)で頭角を現す。現代やくざシリーズ5本。巻頭敵や一家シリーズ異本、蝮の兄弟シリーズ8本と主役が続いた。
転機は深作欣二監督との出会いであった。1972(昭和47)年10月25日公開の「人斬り与太 狂犬三兄弟」が深作と組んだ第1回作品だった。その演技が深作の目に止まり、1973(昭和48)年1月13日公開の「仁義なき戦い」に主演が決まる。
作品は社会現象まで起す大ヒット
実はこの作品、菅原が自ら東映へ持ち込んだ企画でもあった。作品は社会現象まで起す大ヒットになり、トップスターになる。
1975(昭和50)年から始まった「トラック野郎」シリーズでも人気を集め全10作、撮られた。この作品では「仁義なき戦い」とは異なるコミカルな演技が受けた。また主役の星桃次郎は当時、「男はつらいよ」の車寅次郎と人気を二分するキャラクターとなった。
1973(昭和48)年度、キネマ旬報主演男優賞、1975(昭和50)年度、ブルーリボン主演男優賞などを受賞した。

生涯の映画出演は214本。後年、テレビでも活躍。NHK大河ドラマ、民放などで40本以上に出演している。多彩な芸能活動をしたが、2014(平成26)年11月28日午前3時、転移性肝がんによる肝不全のため、東京都内の病院で逝去。81歳だった。
博識な俳優さんで読書家だった
博識な俳優さんで読書家だった。筆者が事務所で会った時も、キューバのゲリラ指導者「チェ・ゲバラ伝」(文芸春秋)を読んでいたのでびっくりした。事務所が銀座にあり、1階は有名な老舗「天一」。そこの天丼もご馳走になった。
最初に会ったのが、1972(昭和47)年、札幌勤務時代。菅原文太主演「木枯し紋次郎」(監督・中島貞夫)のスチール展を小樽の「ニューギンザデパート」で開催。ゲストとして来て貰った。千歳空港へ迎えに行き、小樽までの道中、2人車内では寡黙だった。
その後、東京で仕事が一緒になり、深作欣二監督と3人で夜の銀座をハシゴをしたこともあった。筆者が1993(平成5)年8月31日放送の、テレビ東京3時間時代劇スペシャル「森蘭丸〜戦国を駆けた若獅子〜」(監督・居川靖彦)をプロデユースしたとき、快く出演の承諾を頂いた。
夫人の文子さんと3人でロケ現場へ向かう新幹線の個室で、駅弁のお寿司を食べながら語り合ったこと、車で千歳空港〜ニセコ間の長距離を2人で3往復したこと等が忘れられない。
朝日新聞「天声人語」に載っていた
俳優仲間より、学者、文化人、政治家、ジャーナリスト、会社社長などに人脈が多い俳優でもあった。こんな記事が2014(平成26)年12月3日、朝日新聞「天声人語」に載っていたので紹介したい。
「その客は、いつもとても専門的な書籍について問い合わせをしてきた。なかなかすぐには答えることができない。電話で注文を受けても、在庫がない物ばかりだったりする。客とは菅原文太さんである」と。
東京・神保町にある東京書店の店長だった佐野衛の記事を紹介している。菅原は本の街の老舗を困らせるほど、本を読みこんでいた。
菅原文太著「六分の俠気四分の熱」
ニッポン放送で12年間続いていた、毎週、日曜日放送の「菅原文太 日本の底力」は、菅原が本を読んで著者や、時の人と対談する硬派番組である。その出演者の中から何人かピックアップした菅原文太著「六分の俠気四分の熱」(日之出出版)が出ているので一読をお勧めしたい。
後年は俳優業をセーブし、山梨県で若者と有機農業に勤しむかたわら戦争反対、原発反対、農業を守ろうと全国各地を講演などで歩いた。

