
邦画配給収入№1
アニメ映画「魔女の宅急便」は、1989(平成元)年7月29日に公開され、同年の邦画興行収入ベスト・テン1位なった。1979(昭和54)年に公開した「銀河鉄道999」(16.5億円)がアニメ映画初めて興行収入1位だったが、それ以来の快挙である。

本稿では、既出の「平成元年日本映画ベスト10/No.1,2,3」に記載されなかった成立背景を解説したい。
宮崎駿の初プロデュース作品
本作は、宮崎駿がプロデューサーした初めての作品である。プロデューサーの仕事とは、企画を立ち上げ、予算を集め、各業務を誰が担当するか等を決める。プロデューサーは制作がスタートすると、現場は各スタッフに任せ、一歩引いた形で、自分の思い描いた構想や予算、スケジュールなどが予定通りに進行しているかどうかを、全体的に把握・統括するのが普通である。
当初、宮崎駿は自分の下で演出の勉強をしていた、無名の片渕須直を監督に抜擢した。この片渕須直とは、二十数年後に「この世界の片隅に」で大評判を取った御仁である。
最初のあらすじ
監督を指名された片渕須直は原作を読み、こんな粗筋を考えた。
一人前の魔女になるための通過儀礼として、見知らぬ街に住み着いたキキが、途中で、様々な出会いを伴ったエピソードを経験し、最後には、近くに船が難破し、取り残された人々を救助し、町の人々にキキが受け入れられるという筋書きである。
この最後の、船の難破は原作にないオリジナルアイデアである。ところがプロデューサーの宮崎駿は、本企画は通過儀礼が全てであり、アクションを伴う事件性は盛り込む必要がない、とダメ出しを行ったらしい。
実は、原作を読んでいなかった
さて、通過儀礼とは何か? それは、成長に伴って、人生の節目、節目に経験する修行や試練であり、それを自分自身の力で乗り越えることで、次の段階へ進むことができるイベントであり、物語として、登場人物の成長には欠かせない重要な要素である。
実は、宮崎駿はプロデューサーを引き受ける際に、「となりのトトロ」で忙しかったため、原作を読んでいなかったという、ジブリの鈴木敏夫プロデュ-サーの証言がある。

脚本を一色伸幸に依頼
多忙な宮崎駿代わりに、原作を読んだ鈴木敏夫は、その場の思いつきで、宮崎駿に以下のように伝えた。
この原作は、見た目は児童文学だが、たぶん読んでいるのは若い女性であり、恐らく田舎から都会に出てきて働く女性たちのことを描いた作品である。彼女たちは好きなものを買って、好きなところへ旅行し、自由に恋愛も楽しんでいるが、誰もいない部屋に帰って来た時に、フト訪れる寂しさみたいなものを埋めることができれば映画になる、と。
鈴木の説明で、面白いと興味を示した宮崎駿が、原作を読まずに、プロデューサーを引き受け、当時、新進気鋭の脚本家であった、一色伸幸に脚本を依頼した。しかし、出来上がった脚本は、当然、宮崎駿の思い込みと、ズレがあった。
原作は短編エピソードの繰り返し
そもそも原作は、1982(昭和57)年から1983(昭和58)年にかけて福音館書店の月刊誌「母の友」に連載されていた作品である。故郷から修行に出かけた主人公が、知らない人ばかりの町に住み着き、様々な人々から宅急便を依頼され、それを色々な相手に届け、一年後に、無事、修行を終えて、故郷に里帰りする、というストーリーである。主人公の人間的成長というよりも、児童文学らしく、今度は何を配達するのか、それによってどんな事件が巻き起こるのか、という短編エピソードの繰り返しとなっている。
主人公は、自分の娘?ガールフレンド?
一色伸幸によれば、主人公と自分と同世代くらいのガールフレンドと捉え、当時の、太い眉でキラキラした東京に殺到するけど、ろくな目にあわない女の子たちに、修行として様々な宅急便を届けて苦労する主人公のエピソードを重ねていたらしい。
そのまったく違う角度の切り口は、宮崎駿にとって新鮮であり、全体の構成や描写などは、映画の中にちょい、ちょい活かされたらしいが、全体の乾いた雰囲気に納得ができず、主人公を自分の娘くらいにかんがえていた宮崎駿は最終的に自分で脚本を書くことになった。
鈴木さんの言っていたことなんて、どこにも書いてないじゃないか!
ところで、宮崎駿は映画のスポンサーであるヤマト運輸に「僕はヤマト運輸の社員教育のための映画を作るつもりはありません」と、制作が始まる前の顔合わせ段階で宣言しており、何かを運んで困っている人を助けて感謝されるだけの映画にしたくなかった。
宮崎駿は、脚本の執筆にあたって、改めて、鈴木敏夫と相談し、思春期というヒントを得た。
まだ自分を守ってくれる確かなものを持っていない思春期を切り口に脚本を執筆することになった。宮崎駿が原作を読んでみて、鈴木敏夫が言っていたことが、どこにも書かれていないことに驚いたが、それは後の祭りだった。
非常にウェルメイドな良いお話へ
そこで、また鈴木敏夫が言い訳して、宮崎駿の執筆作業に全て付き合うことになり、完成した脚本は、親切な老婦人の依頼を受けた主人公が届け物をしても報われず、体調を崩して、魔法の力も弱くなり、落ち込むという挫折感と屈折を体験するが、最後に老婦人からの思わぬプレゼントに涙ぐんだところで終わる、という地味で実直だが、良く出来た内容に仕上がった。
主人公のペットである黒猫のジジの役割は、もうひとりの自分であり、ラストで喋れなくなるのは、この町で、ちゃんとやっていけるようになり、分身がもういらなくなったという意味であり、町の中で自分の居場所を見つけた主人公の変化、成長の表現であった。
大人の事情で監督交代
さて、その頃、監督の片渕須直は、作品の舞台となる若い女性が好むヨーロッパを理解するため、メインスタッフと共にスウェーデンへロケハンに出かけていた。帰国後、いよいよ本格的な制作に取りかかろうとしていた時に、スポンサーの徳間書店から宮崎駿監督作品以外に出資出来ないと明言され、宮崎駿が監督することになり、 演出補として現場に残ることになった。
そして、娯楽映画として、観客へ提供するサービスシーンが欲しいと鈴木敏夫が進言し、脚本に無かった飛行船からボーイフレンドを救うクライマックスシーンが付け加えられることになり映画は、ほぼ完成した。
映画はプロデューサーのセンスと判断次第
公開された映画は大ヒットになった。そこには自粛ムード~天皇崩御で暗かった世相が、平成に変わった開放感に満ち溢れたことと無関係ではなかったかも知れない。前作の名作「となりのトトロ」は、同時上映の「火垂るの墓」が少し暗い作品で、それが動員の足を引っ張ったのではないか、ともいわれた
それに比べ、「魔女の宅急便」は地方から上京した若い女性が共感するような明るい希望を感じさせる作品となっており、ラストにスペクタクルシーンなどもある娯楽作品に仕上がった。
この作品、映画の良し悪しはプロデューサーのセンスと判断次第、という好例の一つと言えよう。

