
1935(昭和10)年〜1944(昭和19)年
李香蘭主演の国策映画人気
国策映画はひとえに、新人女優・李香蘭に負う所が多かった。李香蘭主演映画は、中国人女優と思われていたので中国人にも人気があった。李香蘭は満州、日本の両国を跨いで活躍する。しかし、この満映も1945(昭和20)年10月、日本の敗戦と同時に閉鎖する。
満映で働いていた日本人家族は、ロシア軍と八路軍(中国共産党軍)から追われ、理事長・甘粕正彦が仕立てた列車などで敗走する。その後、理事長・甘粕正彦は8月20日、事務所で青酸カリで服毒自殺する。
この理事長、過去にアナキスト大杉栄と、その妻、伊藤野枝を殺害した甘粕事件の首謀者で日本で服役していた。その後、満州国民政部警務司長や満州国の謀略機関の親玉として君臨し、悪名を馳せた歴史上の人物である。
日本人であることを明かさなかった
では満映の大スター李香蘭はどんな人だったか少し触れておこう。1920(大正9)年、旧満州(中国東北部)生まれ。13歳の時、奉天放送局にスカウトされ、歌手デビューした。日本人だったが、家族ぐるみでつきあいのあった中国人有力者が付けてくれた「李香蘭」を芸名にした。1938(昭和13)年、満映の専属女優になる。

「親日的な中国女優」として、日本政府の中国支配の片棒を担がされた。そして、日本の植民地政策の「日満親善」「五族協和」を体現するヒロインを次々と演じた。
とりわけ長谷川一夫と共演したラブロマンス「白蘭の歌」(1939年)、「支那の夜」(1940年)、「熱砂の誓ひ」(1940年)は大陸3部作として大ヒットした。
一方歌手としても大人気で、「蘇州夜曲」(1940年)、「夜来香」(1951年)などのヒット曲も生まれた。1940(昭和15)年に東京・有楽町の日劇で開かれたリサイタルでは、観客の行列が日劇を7周り半も取り巻き、警察官が出る騒ぎに。
その間、一貫して日本人であることを明かさなかったため、終戦時には、日本に協力した中国人として銃殺処罰されそうになった。裁判で日本の戸籍簿を提出し日本人であることを証明して謝罪。1946(昭和21)年、日本への帰国が許された。

祖国日本と母国中国の懸け橋として奔走
戦後は山口淑子として日本映画に登場。1950(昭和25)年、谷口千吉監督「暁の脱走」や黒澤監督「醜聞 スキャンダル」などに出演。ハリウッド映画「東は東」などにも出演した。
1951(昭和26)年、彫刻家のイサム・ノグチと結婚したが、4年あまりで離婚。その後、外交官の大鷹弘と1958(昭和33)年に再婚。一度は芸能界から引退する。
しかし、山口は「戦争のために国策として使われた」感は拭えず、後年、ジャーナリストや政治家として世界の戦地に赴き、パレスチナ問題などに関わった。
1969(昭和44)年からテレビのワイドショー「3時のあなた」の司会役として、また1974(昭和49)年の参議院全国区に自民党から立候補して、議員を3期務めることになる。
その間、祖国日本と母国中国の懸け橋として奔走するも、2014(平成26)年9月7日、心不全のため逝去。94歳だった。
山口は戦時下を中国・日本で活躍し、女スパイ川島芳子とも親交があったので、一時、両国からスパイと疑われていたこともあった。
山口は後年、自伝を書くのに、自分の出演作を見ていなかったので、映画「支那の夜」などの作品を見ることが有り、「私の愚かさ、無知が口惜しくて涙が止まらず、3日3晩眠れませんでした」と語り、「大陸から日本をどう見るかという視点を常に意識していた」と、議員秘書だった磯村順二郎が回顧している。
まさに山口淑子は戦争社会の被害者でもあった。また、4年間、夫として生活した、世界的彫刻家イサム・ノグチは札幌とも縁が深く、東区にある広大な「モエレ沼公園」はイサム・ノグチが設計したもの。
公園全体の彫刻作品としては日本屈指である。併せて大道り公園や南区の芸術の森美術館で、彼の作品がいつでも自由に観られる。

