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日本映画100年史

本【日本映画100年史】をリアルタイムで加筆していく、ライブブックブログ!

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日本映画界もそれなりに健闘

2019.09.03 by 西川昭幸

1951(昭和25)年〜1955(昭和29)年

テレビが駆け足で来る

 “人口2万人に1館”、この数値を超えると、当時の映画館経営は苦しくなるといわれていた。1950(昭和25)年8月の札幌市の人口は、31万5,000人で、映画館の数が15館。大体釣り合っていた。

この傾向は、1945(昭和20)年代は何とか維持されるが、1955(昭和30)年代に入ってくると、映画館の乱立が始まり、そのバランスは大きく崩れていく。

「自由学校」の画像
自由学校(昭和26年)

昭和30年代半ばをピークに、その後、映画館が次々と閉館するのは、乱立、共食いが原因の1つだった。何しろ、1965(昭和40)年頃の札幌は、人口が約80万人なのに、映画館は53館を数えていた。そしてもう1つの要因は、テレビの普及だった。

映画関係者にも多少の不安はあったが、まさかテレビがこんな急速に普及するとは夢にも思わなかった。テレビ放送が駆け足で動き出したのは、1951(昭和26)年の秋。アメリカのテレビ界がNHKや民放に声を掛け、テレビの普及を図った。

サラリーマンの平均月給が9,000円の時代に、テレビの受像機は1台14〜5万円もするので、国民がどれほど利用できるか危ぶむ声もあった。しかし、放送界はテレビ本放送の開始に向けて、急速な歩みを始めていた。

そのころ、札幌の映画界はどんな状態だったかというと、「トイレのにおい(アンモニア)が館内に充満し、くさい公衆便所」とか「映画館の風紀が乱れているので、警官席を復活せよ」などと、叩かれている始末。

洋画攻勢の嵐は、いよいよ厳しく

こうした時代の1951(昭和26)年12月、6年間アメリカ映画を配給してきたセントラルが解体。洋画配給が自由になった。そのため、洋画攻勢の嵐は、いよいよ厳しくなって行った。 

そうした中、映画界はそれなりに健闘していた。ちなみにこの年、1951(昭和26)年の興収のベストテンは、①源氏物語(大映)、②大江戸五人男(松竹)、③馬喰一代(大映)、④自由学校(大映)、⑤銭形平次・恋文道中(大映)、⑥麦秋(松竹)、⑦続・佐々木小次郎(東宝)、⑧完結・佐々木小次郎(東宝)、⑨自由学校(松竹)、⑩銭形平次(大映)となっている。

この年、朝日新聞で連載されていた獅子文六原作の「自由学校」が、松竹と大映が競作している。両作とも公開日が5月5日と同じ日の封切りだった。

松竹が渋谷実監督、大映が吉村公三郎監督。両作品とも大ヒットを記録した。そのため、この週のことを「ゴールデンウイーク」と呼ばれた。それ以来、5月のこの週をゴールデンウイークと呼ぶようになった。

1952(昭和27)年の世相

〈謎を残して「もく星」号墜落〉

4月8日午前7時42分、乗員4人、乗客33人を乗せて、羽田を飛び立った伊丹空港経由、福岡行の日本航空旅客機「もく星」号が、約30分後に消息を絶った。

一時は静岡・舞阪沖に漂流などの情報があったが、10日、三原山で発見され、全員の死亡が確認された。墜落原因は三原山(標高758㍍)に衝突したことが分かった。なぜそんな低空飛行をしたのか、謎が残った。

〈対日平和条約発効〉

1952(昭和27)年4月28日午前10時30分、対日平和条約・日米安全保障条約が発効し、日本は6年と8ヶ月の長きに渡った占領を解除され、晴れて完全な主権国家として国際社会に復帰した。日本もかろうじて独立国家となった。

しかし、振り返ってみると、米軍による占領期間中は、様々な案件があった。その中でも一番大きなものは、何といっても組合問題だろう。

自由主義の国の労働者は人権が認められなければならない。その基本的人権を守るのが労働組合だからと、どんどん組合を作らせた。やがてその力が大きくなり過ぎて国家権力で押し切れなくなると、“アカ狩り”と称して、組合潰しにかかった。

要するに、ほんの御用組合程度の、いたって形骸化した組合であれば良かったのだが、あまりその勢力が強くなってきたので、困ったわけだ。いってみれば、マッチポンプのようなことを米軍占領部は実行した。

〈メーデーで流血の皇居前広場〉 

5月1日、独立後、初のメーデーが行われ「再軍備反対」「低賃金打破」などのスローガンを掲げて、東京神宮外苑広場には40万人が集まった。午後「人民広場へ行こう」と叫び、デモが禁止されている皇居前広場に入った。

午後2時過ぎ、警察隊がデモ隊の排除を始め、一帯は修羅場と化した。阻止する警官と衝突。警官隊は催涙ガス弾、拳銃やピストルを発射し、デモ隊は旗ざおやプラカード、投石などで対抗した。白バイが叩き壊され、米軍の自動車は焼き討ちされ、堀に落ちる警官や米兵もいた。

夕方まで続いた衝突で、死者2人、重軽傷者千数百人、警察官の負傷者800人に達した。死者2人は拳銃で射殺されたものだった。皇居前広場「血のメーデー事件」である。この事件をきっかけに、2ヶ月後、破暴法が公布施行された。

〈日本文学の戦後〉

またこの年、終戦を機に新しい価値観の時代が到来し、実力のある作家たちが躍動した。大衆文学の吉川英治、大仏次郎、石坂洋二郎、林芙美子。戦争文学の野間宏、大岡昇平、堀田善衛、吉田満。新進気鋭の石原慎太郎、石川達三、伊藤整、大江健三郎などが社会小説の潮流を作って行く。

〈その他の出来事〉

3月4日、十勝沖地震(M8・2)が起き、北海道南部を中心に津波が襲い、死者行方不明33人を出した。4月1日、NHKラジオで子供向け「新諸国物語」が始まり、人気を集めた。

脚本家で児童文学者の北村壽夫の原作は、善玉と悪玉の戦いが共通していた。第1部「白鳥の騎士」、第2部「笛吹童子」、第3部「紅孔雀」と続く。1960(昭和35)年まで7作が放送された。

4月10日、NHKラジオ、ドラマ「君の名は」放送開始。大人気になり、昭和28年松竹で映画化された。「日劇ミュージックホール」が生まれ、戦後の解放感とともに、性風俗の主流となったストリップが隆盛ぶりをみせたのもこの年。

Filed Under: 昭和(中期) Tagged With: 吉村公三郎, 大映, 松竹, 渋谷実, 自由学校

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著者紹介(西川昭幸)

1941年北海道生まれ。東洋大学社会学部卒。
映画会社勤務などを経て現在、公益社団法人理事。
<主な著作>
「北の映画物語」(北海タイムス社)、
「美空ひばり公式完全データブック 永久保存版」(角川書店)、
「活字の映画館 明治・大正・昭和編」(ダーツ出版)、
「日本映画100年史」(ごま書房新社)、
「美空ひばり最後の真実」(さくら舎)、
「昭和の映画ベスト10、男優・女優・作品」(ごま書房新社)

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