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日本映画100年史

本【日本映画100年史】をリアルタイムで加筆していく、ライブブックブログ!

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大衆娯楽の王座にあった良き時代の話

2019.08.29 by 西川昭幸

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1951(昭和25)年〜1955(昭和29)年

昭和26年「東映」誕生! 

戦後の経済不況や洋画の攻撃のため、邦画市場全体が苦戦を強いられるなかで、東映株式会社が、1951(昭和26)年4月1日、東横映画㈱、大泉映画㈱、東京映配㈱の3社合併によって創設された。

社長は元、東急電鉄専務の大川博。設立第1日目に出勤した大川を待ち構えていたのは合併前の3社から引き継いだ借金だった。負債総額7億4千万円を抱えたうえ、別に7,500万円余の高利負債(最高日歩65銭)があり、銀行取引も停止一歩手前で、再建はおろか、東急の投資回収さえも及びつかぬ状態であった。

その中でも、いわゆる市中の高利貸しからの借金が大半を占めていた。大川は就任早々から高利の利下げ交渉や低利への切り替えに奔走した。「東映の新社長は何よりも金・金・金であった」。

「ハラワント映画」

連日債権者や金融業者、税務署が詰めかけ、会社は盛況?を呈していた。8億2千万円の借金は、当時のざるそば1杯25円ほどだったから、大変な巨額負債だった。東映がパラマウント映画をもじって「ハラワント映画」と呼ばれたのも、この頃のことである。

「遊民街の夜襲」の画像
遊民街の夜襲(昭和26年)

発足した東映だったが映画の配給網が貧弱だったので、東宝と配給提携を結ぶ。しかし、両社の思想の不統一、作品カラーの違いから、興行成績の差がひどく、東宝直営館から東映作品の上映拒否や、配給歩率の引き下げを強要され、東映は一方的不利益のまま1ヶ年で、東宝との契約を解除。

のるかそるかの大勝負

1951(昭和26)年10月「会社再建総決起運動」を起し、自主配給による自力更生に舵を切る。いわば生き残りの、のるかそるかの大勝負であった。

直ぐに採算の合理化案として、3社合併で増えた余剰人員カット、経費の一割削減などを断行した。努力の甲斐が有って少しずつ成績が好転していった。

そうした中で、東映が社運を掛けて断行した全プロ配給の第1弾、「江戸恋双六」(監督・松田定次)が1951(昭和26)年12月28日公開、第2弾「新撰組 京洛風雲の巻」(監督・萩原遼)が1952(昭和27)年1月3日公開。第3弾「遊民街の夜襲」が、1952(昭和27)年1月10日公開と続いた。

フィルムが途中でチョン切れた

この3作品が予想以上にヒットし、3作品合せて1億6千万円の配収を上げた。しかし、ハプニングもあった。正月映画の製作は強行スケジュールで進められていたため、「遊民街の夜襲」が、エンドマークが出ない未完の状態で劇場にかかるという珍事が発生した。

6巻物のフィルムのうち、後半の2巻が撮影の遅れで封切に間に合わず、フィルムが途中でチョン切れたままだった。作品は、人が走って行くシーンで唐突に切れて終る。正月興行で大入り満員だったが、なぜか観客は何も言わなかった。

ところが館主さんから苦情が殺到した。そこで解決策として、大入り作品で有ったことも踏まえ、完成バージョンを「前後篇大会」として10月29日に再上映した。ところがこれがまた大当たり。これで苦情処理は一件落着。1作で約4,500万円の配収を上げた。

綱渡りの製作スケジュールは当時の東映では常識だった。現場も会社再建に必死だったのだ。ラストシーンに達しない映画は過去にもあった。日本映画の父といわれた牧野省三が、晩年に、窮乏のマキノプロの建て直しを図って製作した「忠魂義列・実録忠臣蔵」だ。

全国でフィルム火災相次ぐ 

全国公開が5日間遅れてまだ編集中だったこの作品、フィルムが裸電球に触れて火災となって大半を消失、断片だけがそのままの状態で封切られるという珍事だった。これが1927(昭和2)年のこと。この時も観客は、何の不満も言わなかった。フィルムが少なく、映画が大衆娯楽の王座にあった、良き時代の話だ。

映画のフィルムが強燃性であることを、関係者は充分承知していた。戦時中にフィルムは、火薬の原料という扱いを受けていた。映画館の火災は、フィルムの引火による原因が圧倒的に多かった。

そのため、不燃性フィルムの研究が続けられていて、試作品も一応完成していたが、従来のセルロイドのフィルムと比較すると固く、映写中にすぐ切れるという欠点があった。しかし、そんな事を言っていられない程の事故が、次々と起きていた。

フィルムから引火して火災が発生

まず釧路管内浜中町茶内で、漫画映画の上映中、フィルムから引火して火災が発生、小・中学生42人が死亡するという惨事が起きた。1951(昭和26)年4月19日、白昼の出来事である。発火した映写室が入口にあり、非常口も施錠してあったため、唯一の逃げ場である奥の窓口めがけて殺到したので、死亡者が多く出た。

「映写機エルネマン5号」の画像
映写機エルネマン5号(昭和26年)

次いで、6月3日、滋賀県彦根市の近江絹糸工場で、やはりフィルムによる引火で火災が発生。女工45人が死傷するという事件が起きた。夜のことで、新人の歓迎映画会を催していた最中の惨事であった。

直接の原因は、電源スイッチを入れたら、映写機が古いためスパークしてフィルムに引火したのだ。

彦根の惨事から2ヶ月も立たない7月26日、今度は札幌五番館デパートの前で、満員の大型バスが火を吹いた。運転席のに積んであったフィルム22巻が、発火した。車体は一瞬にして猛火に包まれ、焦熱地獄と化した。

この時も死者7人、重軽傷者33人の大事故だった。原因は、裸電球にバッテリーの火花がショートしたためだった。これ以来、バスの車内に「フィルム持ち込み禁止」の規則ができた。また、業界が自主的に不燃性フィルムの使用を始めるのは、これから数年後のことである。

Filed Under: 昭和(中期) Tagged With: ハラワント映画, フィルム火災, 東映

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著者紹介(西川昭幸)

アバター1941年北海道生まれ。東洋大学社会学部卒。
映画会社勤務などを経て現在、公益社団法人理事。
<主な著作>
「北の映画物語」(北海タイムス社)、
「美空ひばり公式完全データブック 永久保存版」(角川書店)、
「活字の映画館 明治・大正・昭和編」(ダーツ出版)、
「日本映画100年史」(ごま書房新社)、
「美空ひばり最後の真実」(さくら舎)、
「昭和の映画ベスト10、男優・女優・作品」(ごま書房新社)

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