1951(昭和25)年〜1955(昭和29)年

「カルメン故郷に帰る」
宣伝ヒートアップ 数々の名作を生んだ、木下恵介監督と女優・高峰秀子が初めてコンビを組んだ作品「カルメン故郷に帰る」は、わが国初の総天然色映画だった。公開は1951(昭和26)年3月21日。

高峰は、撮影現場の様子を自著「わたしの渡世日記」の中で、こう記した。「木下恵介もいいけど、こりゃ生命がけの仕事になりそうだ」。さらに「この映画で、私は殺されてしまうのではないかしら」とも。
1951(昭和26)年、富士フィルムは日本映画監督協会にカラー映画作りを提案。協会は松竹に企画を持ち込み、製作にこぎつけた。当時のフィルムは感度が極端に低く、大きな光量を必要とした。そのため、冷房のない真夏のスタジオは極暑に見舞われ、高峰ら出演者は地獄のような現場を体験。
最初のカラー映画作りは壮大な実験
巨大なライトをいくつも照らされた高峰は、ヘアオイルが高熱で熱せられ、頭から煙が立ちのぼったこともあった。まさに最初のカラー映画作りは壮大な実験であり、万一の失敗を恐れた松竹はモノクロ版も同時に製作していた。
札幌は東京公開の3ヶ月後の6月14日、つまり札幌祭り(北海道神宮祭)にぶつけて興行を行った。松竹座で上映したが、この映画は、松竹映画の30周年記念作品でもあった。

外国映画が段々とカラー化して行く中で、日本映画もこれに追いつけ、追い越せとばかりに、満を持して、松竹がこの1作を打ち上げた。一時は最下降をたどっていた映画興行も、いくぶん上向きの兆しが見え始めていた時だった。
ストーリーは、あまり頭の良くない、リリー・カルメンと名のるストリップガールが、仲間と一緒に、故郷の軽井沢の牧場に帰って来たことから起こる珍騒動である。筋そのものは他愛のない作品だった。
美観、風致を害すると注意を受ける
さて、この作品、映画は他愛のない珍騒動を明るく描いた物だったが、札幌では珍事件が起こっていた。ストリッパーの踊る看板が風紀を乱すと、役所より注意を受けていたのだ。
“醜悪な広告、看板は都市の美観、風致を害する”として、すべての広告物は許可制にする「北海道広告物条例」が施行されて半年。ところが、さっぱり効果が表れなかった。各支庁では1日に15〜20件の届出を受理しているのに、お膝元 の札幌市では、半年で50件がやっと。
その大半のワルは映画の立看板だった。タイミング悪く、この時期に「カルメン故郷に帰る」が引っ掛かってしまつた。今では考えられない出来事だった。
さて、この映画が札幌で封切られた6月14日、主演のリリー・カルメンを演じた高峰秀子が、木暮実千代の見送りを受け「高峰秀子としてではなく、本名の平山秀子にかえって行ってきます」と、“自由”を求めて、羽田からパン・アメリカン機で、あこがれのフランスヘ、約六ヶ月の旅に出て行った。

