
1966(昭和41)年〜1988(昭和63)年
経済が大打撃を受け石油危機
1973(昭和48)年10月に第4次中東戦争が勃発すると、アラブ石油輸出機構が石油戦略を行使し、価格を4倍に引き上げた。世界最大の原油輸入国、日本はその大半を中東地域に依存していたので、経済が大打撃を受け石油危機を招いた。
そのため、経済成長の低下、物価・失業率の上昇という、深刻な事態に直面した。その打開策として1975(昭和50)年、先進国首脳会議(サミット)が結成され、経済成長や先進国の諸問題についての調整が行われた。

田中角栄が「日本列島改造論」
国内では1972(昭和47)年、田中角栄が「日本列島改造論」を掲げて内閣を組織。工業の地方分散、新幹線と高速道路のネットワーク整備を急いだ、そのため、土地、株式への投機がおこり地価が暴騰。原油価格の高騰と重なり激しいインフレが発生し、買占めパニックなどが起き、狂乱物価が続いた。
深刻な不況が収まらず、1974(昭和49)年には経済成長率が戦後初となるマイナスとなり、翌年以降も低成長にとどまり、日本経済の高度成長は終焉を迎えた。
そうした中、1974(昭和49)年、田中首相がロッキード事件をめぐる金脈問題で内閣を総辞職。その後、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸と首相が代わり日本経済の立て直しを図っていく。
1982(昭和57)年、中曽根康弘内閣が発足し、日米韓関係の緊密化と防衛費の大幅な増額を図る一方、行財政改革を推進し、老人医療や年金などの社会保障を後退させ、電電公社(現・NTT)・専売公社(現・JT)、国鉄(現・JR)の民営化を断行した。
63年間続いた激動の昭和
第2次石油危機を乗り切った日本は、これ以降「重厚長大型産業」から「軽薄短小型産業」あるいは「知識集約型産業」への転換を行い、日本の貿易黒字は大幅に拡大し、1980(昭和55)年代半ば以降、1人当りの国民所得でアメリカを抜いて、日本は世界1位となった。
世の中が目まぐるしく変貌していた。特に日本は、産業技術が高度化され、電子機器関連の産業が主流になり、コンピューターが中心の世界になって行く。更に高度通信システム、衛星放送の発達など、ニューメディア時代が始まった。また、通信機器の発達で監視社会を出現させた。
株式市場もマクロ化され世界中が24時間動き、貧富の差は個人、国対国にも表れ、それが矛盾を生み、後進国で内乱が勃発する社会に。また、世界中が化石燃料の獲得に、し烈になって行く時代でもあった。激しく動く社会の中、63年間続いた激動の昭和が幕を閉じて行く。
