
1951(昭和25)年〜1955(昭和29)年
これほど、愛された女優は珍しい
これほど世間から注目され、愛された女優は珍しい。原節子は1920(大正9)年6月17日、横浜市保土ヶ谷区生まれ。私立横浜高等女学校2年生のとき、日活多摩川撮影所に入社。1935(昭和10)年、「ためらう勿れ若人よ」でデビュー。同作で演じた役名「節子」から芸名をとって原節子にした。本名は会田昌江。

デビュー後、多くの作品に出演したが、原を一躍有名にしたのは、ドイツとの合作映画「新しき土」への出演だった。物語は、1人の日本人青年(小杉勇)がドイツから帰国する。彼は日本に許嫁(原節子)がいるのだが、もう彼女と結婚する気はない。すっかりヨーロッパ文化に染まった彼は、船上で知り合ったドイツ人女流記者を連れて帰国する。
厳格な父(早川雪舟)に育てられた許嫁は模範的なタイプの大和撫子。それを聞いた許嫁は、失意のあまり、花嫁衣装を抱いて、日本アルプスの噴煙けむる火口に投身自殺を図ったが助けられる。
しかし、許嫁の父らによって、日本の素晴らしさを再確認した青年は、許嫁と結婚し満州に渡り「新しい土」の開拓に励む。ドイツでは「サムライの娘」として公開された。
当時の国威発揚映画である。ストーリは単純だが、世界山岳映画の第一人者ファンクが日本に来て撮ったというだけで爆発的人気を呼んだ。1937(昭和12)年のことである。原はこの映画でドイツヘ渡り大歓迎されている。

「新しき土」で一躍、スターダムに駆け上がった原は、1946(昭和21)年9月、資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。
東宝へ移籍後、山本薩夫、島津保次郎、今井正、衣笠貞之助、渡辺邦男、成瀬巳喜男などの巨匠監督作品に多く出演、実績を残した。

押しも、押されもせぬ大女優
戦後初の黒澤明監督「わが青春に悔いなし」では、大学教授の令嬢から農村で思想犯の妻として白眼視されながら、泥まみれなって働く女を体当たりで演じた。この作品の後、東宝争議を逃れ、1946(昭和21)年6月、フリーの女優として独立する。
フリー第1作は「安城家の舞踏会」(監督・吉村公三郎)。初の松竹作品だった。1949(昭和24)年は作品に恵まれた。「お嬢さんに乾杯」(監督・木下恵介)、「青い山脈」(監督・今井正)、「晩春」(監督・小津安二郎)とべストテン入選作3本に主演した。
この年、毎日映画コンクール主演女優賞を獲得している。1951(昭和26)年、黒澤明監督「白痴」に出演。上映時間が長すぎるとして、カット問題が起きた作品でもある。この年「麦秋」(監督・小津安二郎)、「めし」(監督・成瀬巳喜男)の主演作品が、毎日映画コンクールの1位、2位を占め、また、またブルーリボン賞、両作品の主演女優賞を射止めた。
もはや押しも、押されもせぬ大女優になって行った。1953(昭和二28)年の「東京物語」は、小津安二郎と、原節子の代表作として、今も多くのファンが「世界の名作」として賞賛している。その後、20本以上の作品に出演。
「永遠の処女」原節子引退
1960(昭和35)年「秋日和」(監督・小津安二郎)、「小早川家の秋」(監督・小津安二郎)出演と秀作が続くが、1962(昭和37)年、稲垣浩監督の「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」の大石内蔵助の妻りく役を最後に銀幕から退く。
その思い切りのいい引きぎわは、謎とされ、その際立った美しさから「永遠の処女」とよばれ、いつか神秘化されていった。1963(昭和38)年12月12日、小津安二郎が60歳で逝去。その通夜に出席したのを最後に事実上引退し、以後表舞台に一斉姿を見せなくなった。
巷では「小津の死と共に一切の公の場から姿を消し、喪に服した」と言われた。その原も2015(平成27)年9月5日肺炎のため95歳の生涯を閉じる。数々の名作を残した小津安二郎監督は原のことを「お世辞抜きで映画女優としては最高だと思っている」と語り、共演した司葉子は「原さんの一番の魅力は清潔感。演技では出せない生地の魅力がありました」と讃えている。
ちなみに原節子は1953(昭和28)年、「白魚」の御殿場の撮影中、実兄会田吉男(東宝のカメラマン)が列車にはねられ、不遇の死を遂げるという悲劇にもあっている。身長165センチと恵まれた体格だった。未婚で最後まで神秘に包まれた女優さんであった。
