
1951(昭和25)年〜1955(昭和29)年
北海道ロケ「愛と憎しみの彼方へ」
1950(昭和25)年の秋、阿寒湖畔にロケ隊一行60人がやって来た。谷口千吉監督作品「愛と憎しみの彼方へ」(日本芸術協会)の撮影である。主演・三船敏郎、池部良、水戸光子、志村喬などの豪華な顔ぶれだ。
ストーリーは、残り半年で仮釈放になる不動(三船)と呼ばれる模範囚が、その妻(永戸)に、男(池部)ができたとそそのかされ、仲間と共に網走刑務所を脱走するところから始まる。不動を信じ、武器を持たずにその後を追う看守(志村)。
妻の相手だといわれた男は、実は村の医師で民生委員。不動の脱獄を知った妻は、その誤解を解こうと、思い出の炭鉱小屋へ。一方、村の医師もその後を追う。最後には子供が肺炎を起こし、山中で必死に介抱するふたりの姿に真実を知り、追って来た看守の手錠を自から受ける、というもの。
この映画、1951(昭和26)年1月11日の正月映画として、東宝配給で封切られている。ロケ中、色々のエピソードも生まれたが、けっさくなのは帰京前の1日、スターたちが網走港にサケ漁を見物に出かけた時のこと。
「へエー、これがサケですか」と感嘆したのは、切身しか知らなかったという池部良。「まあこんなにたくさん、まるで池のコイみたい。」といったのは水戸光子。
三船敏郎だけは、何もいわず目をむいていたが、出された生のスジコに「おい、このスジコ食ってみろよ。ぜんぜんしょっぱくねぇぜ!」と思わず叫んで、東京人の恥をムキ出しにしたとか…。
1951(昭和26)年の世相
〈マッカーサー元帥、突然の解任〉4月11日、敗戦直後から日本に“君臨”し続け、数々の改革を推進したマッカーサー連合国軍最高司令官が、トルーマン大統領によって解任された。
マッカーサーは朝鮮戦争で参戦した中国軍、特に中国東北部への空爆を主張。戦争を限定的にとどめたい大統領と対立し、解任されたもの。
4月16日、後任のリッジウェイ中将への引継ぎを終え帰国した。多くの日本人がその離任を惜しみ、約20万人が米大使館から羽田までの沿道で見送った。


〈講和条約締結、独立国ニッポンへ〉
9月8日午前10時からサンフランシスコのオペラハウスで、「サンフランシスコ講和条約」が締結された。48ヶ国の代表が署名を済ませ、最後に日本の吉田茂首相が署名した。
ようやく独立ニッポンが誕生した。敗戦から6年、これ以降、GHQが日本から撤退していく。多くの国民がそれと気づかないうちに、日本は目覚ましい発展の第一歩を踏み出していた。
〈抱腹絶倒の喜劇人大活躍〉
数々の名コメディアンを生み出すことになる「浅草フランス座」がオープンし、ストリップ劇場が賑わいを見せた。大阪、名古屋でもラジオ放送が始まり、柳家金語楼、榎本健一(エノケン)、三木のり平、古川録波(ロッパ)、伴淳三郎、トニー谷、益田喜頓、大宮敏充(デン助)、花菱アチャコ、横山エンタツ、などの関西、関東の喜劇人が、抱腹絶倒の笑いを届けていた。
〈プロ野球界が大騒動〉
前年にセ・リーグとパ・リーグに分裂していたプロ野球だったが、開幕前に、またしても騒動が起きた。当時セ・リーグには8球団が所属していたが読売が提唱したセ・リーグ6球団化に、経営難の西日本パイレーツが反発してリーグ脱退を表明、パ・リーグの西鉄クリッパースがこれを受け入れたため、セ・パ間の対立となった。
さらに、西日本が読売の三原修総監督を引き抜いたことで、問題が紛糾した。結局、西日本と西鉄が合併して西鉄ライオンズが発足。また、セ・パの各野球連盟と、コミッショナーが設置された。
一方、セ・リーグの広島カープは、資金難による球団経営の見通しが困難であることが発覚。球団存続の危機に陥った。解散、または大洋との合併を検討したが、反対する市民による募金活動などで、何とか存続出来る事になった。なお、夏には第1回のオールスター戦が開催された。
〈その他の出来事〉
4月24日、横浜・桜木町で走行中の国鉄車両から出火。ドアが開かず106人が焼死する、桜木町事件が発生した。
7月31日、戦後初の民間航空会社、日本航空設立、初代会長に藤山愛一郎がなった。10月25日、日航の「もくせい号」が東京〜大阪〜福岡間に就航した。
