
1951(昭和25)年〜1955(昭和29)年
「羅生門」国際グランプリ受賞
1950(昭和25)年8月26日、戦後の日本映画の記念すべき傑作が公開された。黒澤明監督の「羅生門」だ。
作品は戦乱や天変地異、疫病が続く平安の世を舞台に、武士の殺害の状況を証言する関係者の陳述の食い違いが、人間のエゴを暴き出していく。芥川龍之介「藪の中」の小説を橋本忍が脚色。これを黒澤が手直しして、大映に持ち込んだ。
大映首脳陳は脚本の難解さに頭を抱えたが、新人・京マチ子の起用、出演者が少数、セットも羅生門と検非違使の塀だけという条件に映画化を承諾。ところが、羅生門のセットが、高さ20m、奥行き22m、間口33mと巨大なことに気が付いたときは遅かった。ある重役は「あれなら、セットの100杯建てたほうが良かった」と嘆いたという。
ベネチア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)
それでも、完成した映画は難解な内容がかえってインテリ層に受け、東京・丸の内の劇場では3週間も続映。全国的にも水準以上の興行成績をあげた。翌年、「羅生門」はベネチア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)を手にし、黒澤明や日本映画が世界に紹介されるきっかけとなった。

札幌大映劇場(元 美満寿館)で公開されたこの作品、前評判が非常に高く、興行側でも相当に入れ込んだ宣伝をしている。次のような新聞広告だった。10年に1度の名作と銘打ち、「全日本映画ファンの皆様、待望のうちに「羅生門」はいよいよ本日封切の日を迎えました(中略)…。

全映画批評家から世界的名作であると賞賛された問題作であります。この名画を深く味わって戴くためには、なるべく最初からご覧になって戴く方が、感銘も深く作品の価値も良く分かって頂けますので、先の上映時間をご承知の上、ご来場願いたく存じます。
映写中はお静かに出入り下さることを合せてお願い申上げます」というもの。今ではたいした抵抗も無いが、当時としてはかなり、ではあるが、高飛車な宣伝だった。相当自信がなければ、客に対して、ああしろ、こうしろと、注文をつけることは出来まいと思うが、やったのである。
奈落の底で、珠玉の宝石が燦然と輝いた
この羅生門、キネマ旬報ではベストテン第5位にランクされる程度だったが、海外では高い評価を得た。受賞は急遽決定したので、受賞式には偶然居合わせた、無関係の東洋人がトロフィーを受け取る代役を務めた。この姿が世界に写真報道され、その東洋人が、黒澤明本人であるとの誤解を招いた。
羅生門の完成試写を見た、大映の永田雅一社長は「この映画はわけがわからん」と批判していた。しかし、受賞が決まると一転して、これを自分の手柄のように語り、お得意のラッパ(演説)を吹きまくった。後年、黒澤明はこのことを回顧し「まるで羅生門の映画そのものだ」と評している。
この受賞、当時の日本はまだ米軍占領下にあり、国際的な自信を全く失っていた時だけに、現在では想像も出来ない程に、国民に希望と勇気を与えた。前評判が高く、その前評判をさらに越えるような映画が誕生することは滅多にないこと。まして、日本映画界低迷の年であった。奈落の底で、珠玉の宝石が燦然と輝いたといえようか…。
映画音楽の先覚者
「羅生門」で忘れてならないのは、音楽が作品の効果をあげていた事だ。この音楽を担当したのが、北海道と縁が深い早坂文雄だった。当時、早坂は日本作曲界のホープであり、同時に映画音楽の第一人者でもあった。
早坂は、1913(大正2)年仙台の生まれだが、幼少のころに渡道、25歳になるまで札幌で過ごす。北海中学を出てからクリーニング屋、印刷屋などで働くかたわら、後にもう一方の映画音楽の雄になる、伊福部昭二らと札幌に「新音楽連盟」を結成、近代音楽の紹介や作曲に熱中する。あまり音楽に熱中したので、どこで働いても仕事に身が入らず、すぐクビになったほど。
1936(昭和11)年、JOAKの懸賞に入選。だが同じころ、伊福部もまたチェレプニン賞を受賞していて、この2人、よくよくの因緑といえそうだ。その後、早坂は、ようやく教師の職にありつくが、突然、植村泰二・東宝社長(北海道出身)に東宝の音楽監督として招かれる。
数々の映画音楽賞を受賞
早坂が「彗星的天才」とジャーナリズムで騒がれるのは、このあたりからである。「リボンを結ぶ夫人」(監督・山本薩夫)でデビューして以来、貧弱な伴奏音楽程度だった映画音楽の認識を、がらりと塗り変えた人といえよう。
戦後、数々の映画音楽賞を受賞してきたが、黒澤監督の代表作品でもある「羅生門」の映画音楽では、「ベニス国際映画大賞」と「アメリカ映画アカデミー賞」を受賞している。これが1951(昭和26)年のことだった。
その他に「七人の侍」(監督・黒澤明)や溝口健二監督の「雨月物語」、「山椒大夫」、「近松物語」、「楊貴妃」などの作曲がある。1955(昭和30)年、惜しまれてこの世を去ってしまった。
早坂と伊福部を酒に例えて比較すると、早坂は洋酒、伊福部は日本酒だといわれた。随筆家の森田たまによると「多角的な才人で、茶を愛し、玄人はだしの絵も画く、手紙の名人」であったそうだ。昭和20年代後半は、日本映画が質的に秀れていた時代で、そこには、早坂や伊福部の秀れた音楽が有ったことを忘れてはならない。
