
1966(昭和41)年〜1988(昭和63)年
<連続女子誘拐殺人事件>
3月から5月にかけ、群馬県の広域で若い女性が次々と消息不明になる事件が発生した。警察や被害者の親族らが結成した私設捜索隊の捜査で、大久保清が容疑者に浮かび逮捕された。
ベレー帽とルパシカ(ロシア民族衣装)を身につけ、芸術家や高校教師を装っていた大久保は、新車の白いマツダ・ロータリークーペーに乗り「絵のモデルにならないか」などと連日若い女性を誘っていた。
肉体関係を強く拒否した17〜21歳の8人を1カ月半の間に次々と殺害、遺体を埋めていた。
この大量女性誘拐事件は終戦直後に女性7人を暴行殺害した小平事件になぞらえ、「第2の小平事件」と呼ばれた。
両親から「ボクちゃん」と溺愛されて育った大久保は、20歳以降たびたび婦女暴行で服役しており、この年の3月に出所したばかりだった。1973(昭和48)年、前橋地裁が出した死刑判決に控訴せず死刑が確定。1976(昭和51)年に執行された。
<その他の出来事>
2月から新東京国際空港を千葉県成田に建設する事で、農地を接収された農民が「三里塚闘争」で抵抗していた。最後の農民一揆と騒がれ闘争は激化、流血などの惨事が続いた。またテレビでは4月3日から「仮面ライダー」が放送開始された。
7月17日、兵庫・西宮球場で行われたプロ野球オールスター第1戦で、セ・リーグ先発投手の阪神・江夏豊が既定の3イニングを全て3振で切って取る史上初の快挙を成し遂げた。
7月30日、岩手県雫石町上空で、千歳発羽田行き全日空58便と航空自衛隊のジエット戦闘機が空中衝突して墜落。乗組員8人、乗客154人の162人が全員死亡した。当時としては世界最大の航空機事故となった。この年、中山律子、須田開代子などを中心とした、ボウリングブームが起きた。
老舗日活 ポルノ映画製作へ
日活と大映が倒産危機にあった1970(昭和45)年の6月、日活は瀕死の大映と組んで、それぞれに製作した映画を両社の系列館で上映するための共同配給会社「ダイニチ映配株式会社」を発足させた。

このとき大映・永田雅一、日活・堀久作の両社長は「1プラス1、イコール2だから一系統でも強力な新系統になる」と発言した。しかし、ダイニチ映配の業績は振るわず、1971(昭和46)年9月提携を解除してしまう。僅か1年半の命だった。
このダイニチ映配最後の作品が「不良少女魔子」と「八月の濡れた砂」(監督・藤田俊八)の2本だった。中でも「八月の濡れた砂」は、閉塞した時代感覚を捉えた青春映画として評価され、若者の人気になった。
一方の大映は11月29日、経営悪化で770人の従業員全員解雇を労組に通告。12月23日、不渡り手形を出して倒産する。
ポルノ映画専門会社に変身
日活がしぶとさを発揮したのは、この直後から。ポルノ映画専門会社に変身したのである。ダイニチ解散10月1日、日活ロマンポルノ発足は10月20日の早業だった。
ロマンポルノは1971(昭和四六)年11月20日公開の「団地妻 昼下がりの情事」(主演・白川和子)、「色歴大奥秘話」(主演・小川節子)からスタートする。興行は3本立て2週間上映が原則。製作予算は通常作品の半分。
作品は「裸さえ出ていればどんなストーリーでもOK」「10分に1回絡みのシーンを入れる」「上映時間は70分」「モザイク・ボカシは入らないように対処する」などが製作の決め事だった。

ロマンポルノ、驚くほど大量に生産された
このロマンポルノ、驚くほど大量に生産された。自由闊達な職場が1990(平成2)年以降に日本映画界で活躍する女優、監督、脚本家などを多く排出した。女優の宮下順子、田中真理、監督の神代辰巳、曽根中生、田中登など。
また、このロマンポルノに外部から参加し、自分を磨いた監督は、相米慎二、滝田洋二郎、和泉聖治、森田芳光、崔洋一、周防正行などがいた。
しかし、ポルノ路線も1980年代になるとアダルトビデオの普及やお客さんの高齢化などで客足が減る一方で大苦戦。ついに1988(昭和63)年4月14日、にっかつ経営陣が記者会見し、同年六月をもってロマンポルノの製作終了を発表した。
「ポルノ映画」と絶妙な名をつけた
この「ポルノ」、ポルノグラフィーの略で、露骨な性描写を主軸にした読物や絵画(春画)、写真などをさす。日本語訳は、さしずめ「ポルノ映画」は「ワイセツ映画」「春画映画」と呼ぶのが正しいかもしれない。それを日活は知恵を絞り、アチラ風に横文字で「ポルノ映画」と絶妙な名をつけた。
このロマンポル、細く長く、16年半も続き一時代を築いた。この路線を懐かしむファンは多い。
にっかつはその後、169902(平成4)年、創立80周年を記念して製作した「落陽」(原作・監督・伴野明)が記録的な不入りで、翌1993(平成5)年に会社更生法の適用を申請して、事実上倒産。
ゲーム会社のナムコが経営に乗り出し、更生計画認可後、1997(平成9)年社名を元の日活株式会社に戻した。以後、角川映画系列に入って行く。
