
1966(昭和41)年〜1988(昭和63)年
豪華スター共演「待ち伏せ」不入り
映画界にも変革が起きていた。まさに変革だった。1970(昭和45)年3月21日、東宝系で公開の、時代劇大作「待ち伏せ」(監督・稲垣浩)が不入りになった。劇場はガラガラで、製作した三船プロダクションは倒産の危機を迎える。
この作品、トップスターの共演やキャストに、監督・稲垣浩、脚本・小国英雄、高岩肇、宮川一郎、音楽・佐藤勝などの、一流どころを揃え、製作中からヒットを噂されていた。
出演は三船敏郎、勝新太郎、中村錦之助、石原裕次郎、浅丘ルリ子の豪華配役陣である。1955(昭和30)年代、彼らが出ているだけで映画館に客が来た。

しかし、テレビの普及によってスターが特別の存在でなくなると、観客動員力はダウン。この作品が、正にそうしたスターシステム映画と安易な企画に警鐘を鳴らし、スターで客を呼ぶ時代の終わりを象徴した。これ以降、俳優プロダクションの製作が激減する。俳優は映画興行の怖さを知った。
映画の殿堂、札幌松竹座閉館
1970(昭和45)年は、東京以北随一といわれた大劇場の札幌松竹座が、不況に耐えきれず、ついに閉館しボウリング場へと変身した。
「松竹座の記録的動員は私の知っている限りでは、1962(昭和37)年のアメリカ映画「史上最大の作戦」(監督・ケン・アナキン)でした。
約14万人を動員しましてね、18週のロードショーで、1ヶ月を置いてから、もう2週間やっています。この時の記録は、1975(昭和50)年封切りの「ジョーズ」(監督・スティーヴン・スピルバーグ)まで破られなかったものです」。そう語るのは、最後の支配人・金子清次郎である。


押し寄せるテレビ攻勢の波
当時の札幌の人口は65万6,500人ほどだから、寝たきり老人から乳幼児までを含めた5人に1人以上が見た計算になる。そんな記録保持の松竹座も、押し寄せるテレビ攻勢の波に案外ともろかった。
「1969(昭和44)年秋に、松竹の大谷社長が札幌に来ましてね、グランドホテルで会議をやったんですが、地下にある「札幌シネマ劇場」1館だけを残してボウリング場に転身することになったんですよ。
そのころ東京では、直営館をだいぶ潰してボウリング場にして、それがけっこう上手くいっていたもんですから。しかし、ボウリングブームもすでにピークを過ぎていた時期だったんです。
でも、反対したのは私1人でしてね…。壊すと聞いた時は、涙が出ました」。この会議の席上で、金子は松竹を退職している。
「松竹座は老朽化して廃館にしたのとは違いますから、壊すのにもずいぶんお金のかかった難工事でした」。そうやって、1969(昭和44)年、映画館からボウリング場に転身する。
契約切れと同時に解体
しかし2年で駄目になってしまう。 その後、建物内の4つの劇場も中映劇場の1館だけが残り、映画館としての命運を細々と保っていたが、1984(昭和59)年、貸館にしていた劇場の契約切れと同時に解体された。
この松竹座は1927(昭和2)年に、一度火災を起こして消失した。当時、松竹座の再建は、ひどく時間がかかった。関東大震災で散々苦汁をなめたので、新築は鉄筋コンクリートによる耐火構造にしたため、膨大な建築費の資金繰りに手こずった。
1929(昭和4)年の暮れ近くになって、ようやく火災から復興し、新松竹座が完成している。新松竹座のウルトラモダンな姿は札幌の新名所になった。
113年の歴史を閉じたシンボル的劇場
東京以北随一の、大劇場の出現だった。新築なった札幌松竹座の特色は、何といっても畳式の座り席を廃したことである。全道のトップを切り、1、2階合わせて1,300人分の椅子席にした。
しかし、椅子になじめない客や着物姿で足下の寒い女性のために、1、2階の正面座席に、座り席を残すという配慮も施されていた。また、暖房設備も完備した。更に大きな特色として下足預かりがなくなったことである。
これは道内の劇場ではトップを切る新システムであった。下足の混雑もなく“終映後一分間で電車に乗れます”というのも、新装松竹座のキャッチフレーズだった。
一抹の寂しさを与えた
師走も押し迫ったころ、いよいよ柿落としとなり、舞台に立つスターの中には、北海道出身の月形龍之助の姿もあった。正に歴史が古く、札幌の興行界のシンボル的劇場だった。
1871(明治4)年以来、燃え続いていた「秋山座」から数えた「松竹座」の火が、1984(昭和59)年、113年の歴史を閉じ完全に消えてしまった。
松竹座は戦後の映画最盛期の頃の洋画ファンならずとも、おなじみの赤い大きな椅子を備えた劇場として馴染みが深い。戦後は進駐軍に接収され、昭和の歴史を刻み続けた、ススキノのシンボル的劇場だっただけに、多くの人々に一抹の寂しさを与えた。
