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日本映画100年史

本【日本映画100年史】をリアルタイムで加筆していく、ライブブックブログ!

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離合集散 日本映画は急速な進歩を遂げた

2019.08.06 by 西川昭幸

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1912(大正元)年〜1925(大正14)年

日本映画界の泥仕合の様相

1925(大正14)年、活動写真業界は、新しい時代に向けた動きが活発だった。その動きを追うと、1月、松竹の梅村蓉子が日活に入社。その返礼か、日活の鈴木伝明が松竹に引き抜かれる。

3月、帝キネ紛争で幹部が総辞職。4月、日活が外国の活動写真を輸入中止。5月、大日本活動写真協会設立。内務省、活動写真検閲全国統一を実施。9月、阪東妻三郎、独立プロを創立。直木三十五らの主宰で「連合映画芸術家協会」を設立。ド・ファレスト博士の試作発声映画「フォノフィルム」が初公開。

10月、日活、松竹、帝キネ、東亜の4社が、プロダクション映画のボイコットを決める。岡田時彦、日活入り。12月、阪妻プロダクション、松竹と提携。市川右太衛門、マキノ活動写真入社。と何ともはや慌ただしい。

「尾上松之助の葬儀」の画像
尾上松之助の葬儀(大正15年)

まるで中小企業同土が、競争相手の足を露骨に引っ張り合っている泥仕合じみた様相の中で、日本映画は皮を1枚、1枚めくるように急速な進歩を遂げていた。1926(昭和元)年になると、3月に東亜とマキノが提携し、4社連盟が破れる。

4月、ユナイトの日本支社設置。8月、パラマウント映画支社が日本で直営興行に乗り出す。全日本映画組合結成。9月、阪妻プロ、米ユニバーサル社と提携。なにやら内輪もめに、対外戦争がプラスされたようなあんばいで、映画戦争が進展する。

活動写真のヒーロー・尾上松之助逝く 

そんな中で、最後まで旧劇で活躍した目玉の松ちゃんこと、尾上松之助が急逝した。5月に「侠骨三日月」の撮影中倒れ、病床から二度と起き上がれず、9月11日に死去した。

1909(明治42)年以来、1千本以上の映画に出演した偉大な偶像を失って、日活の株が、一時的に下落しするほどのショックだった。

牧野省三に見込まれ、旅役者だった無名の一俳優から身を起こし、3歳の子供すら知らぬ者がいないとの名優は、松之助のたゆまぬ努力と人格によって築かれたものだった。その葬儀は日活社葬として日活の京都・大将軍撮影所で行われた。

会葬者は実に5万人

京都府知事をはじめに、会葬者は実に5万人。葬列は延々3キロに及び、堀川丸太町の松之助自宅から、会葬所の撮影所までの沿道は、棺を見送る市民が20万人。生前、松之助がいかに大衆から愛されていたかが伺えた。享年52歳。「侠骨三日月」が最後の作品であった。

尾上松之助が他界して直ぐの、1925(大正14)年12月25日には大正天皇も崩御された。日本映画黎明期のヒーロー「目玉の松ちゃん」は、昭和の年号を知らずに逝った。12月25日から5日間、天皇の崩御によって全国一斉に歌舞音曲が停止となる。映画館もこの間は休業した。

女形役者から監督へ・衣笠貞之助 

大正時代の映画を語るとき、忘れてならないのは、女形で人気のあった衣笠貞之助だろう。衣笠は1896(明治29)年1月1日、三重県亀山市で生まれた。1914(大正3)年、役者を志すも両親に反対され家出(18歳)。以後、大衆演劇一座の女形役者、藤沢守や小井上春之輔として全国を巡業する。

1917(大正6)年、大阪の巡業中に日活にスカウトされ日活向島撮影所(東京)の女形として入社。芸名も衣笠貞之助に変え、1918(大正7)年「七色指輪」(監督・小口忠)でデビュー。以後、日活の向島を代表する女形として活躍。

5年間で130本の作品に出演。「西の尾上松之助か、東の衣笠貞之助か」と、人気になり日活を支えた。1920(大正9)年頃から、映画界は女優の採用に踏み切り、女形の前途に限界を感じて、衣笠は監督に転向する。

このとき、日活向島の総監督に赴任した牧野省三に才能を認められ、日活在籍のまま牧野教育映画製作所で、内田吐夢などと「噫小西巡査」や菊池寛の「火華」を製作。

1922(大正11)年、国際活映に引き抜かれ日活退社。国際活映巣鴨撮影所で「鷲津村の娘」「老僧の恋」等に女形で出演するが、意に添わず退社。その後、再び牧野省三に招かれ、創立したばかりのマキノ映画製作所に入社。

ここでは監督業に専念し、現代劇の製作を衣笠が一手に引き受け多作する。時代劇では1925(大正14)年に撮った沢田正二郎主演の「月形半平太」が大ヒットとなった。

その後、松竹に移籍、1926(昭和元年)年「狂った一頁」を製作。日本映画初のアバンギャルド映画とよばれ、斬新な映像表現が高く評価されたが、興行的には赤字だった。

林長二郎(長谷川一夫)と多くの作品で一緒するが1935(昭和10)年公開の「雪之丞変化」が空前の大ヒットとなり、松竹創立以来の配収をもたらした。

その後、東宝、大映と活動の場を変えるが、不思議と長谷川一夫とのコンビは続いた。その中でも、1953(昭和28)年、日本初のイーストマン・カラー「地獄門」(大映)が、第7回カンヌ国際映画祭パルム・ドールと第2回アカデミー賞名誉賞・衣装デザイン賞、第20回ニューヨーク映画批評家協会賞外国映画賞を受賞し、国際的にも高く評価され、衣笠の名が世界に知れた。

大正時代は女形役者で人気を得、昭和に入り映画監督として多彩な人生を送った衣笠は、映画初期の日本を代表する監督である。1982(昭和57)年、脳血栓のため逝去。86歳だった。

Filed Under: 大正 Tagged With: 尾上松之助, 松竹, 衣笠貞之助, 長谷川一夫

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著者紹介(西川昭幸)

アバター1941年北海道生まれ。東洋大学社会学部卒。
映画会社勤務などを経て現在、公益社団法人理事。
<主な著作>
「北の映画物語」(北海タイムス社)、
「美空ひばり公式完全データブック 永久保存版」(角川書店)、
「活字の映画館 明治・大正・昭和編」(ダーツ出版)、
「日本映画100年史」(ごま書房新社)、
「美空ひばり最後の真実」(さくら舎)、
「昭和の映画ベスト10、男優・女優・作品」(ごま書房新社)

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