
1966(昭和41)年〜1988(昭和63)年
任俠、ヤクザ映画の誕生
任俠映画の全盛期は1964(昭和39)年〜1975(昭和50)年まで、約10年間続いた。当初は東映時代劇が衰退して行く中で、新しいジャンルとして開発されたが、後年は大映、日活、松竹などでも製作され、任俠映画が一時代を築いた。
任俠映画は「第2次世界大戦前の都会の下町を背景にして、善玉やくざが地元の住民をいじめる悪玉やくざと戦う」ことが基本パターンで、任侠映画のストーリーは、あまり多彩とは言えない。どの作品も骨組みがほぼ一定している。
時代劇に代わる新路線の手がかりを掴む
主人公は博打打ちであり、殺人や傷害の前科を持つ犯罪者である。しかし正義感や忍耐心は人一倍強く、また礼儀正しく、人情にもあつい。ただ彼は、どうしても許すわけにはいかない卑劣で強欲な悪党どもと繰り返し出会う運命にあり、そいつを殺して刑務所へ…。
任俠映画の最初の契機になったのは、1963(昭和38)年3月16日に公開した東映の「人生劇場 飛車角」(監督・沢島忠)とその続編である。この2作のヒットで東映は時代劇に代わる新路線の手がかりを掴む。その後、任俠映画を何本か作る。
しかし、この任俠路線を決定的にしたのは、1964(昭和39)年7月11日公開の「博徒」を撮った小沢茂弘と、1964(昭和39)年8月13日公開の「日本俠客伝」を撮ったマキノ雅弘である。「日本俠客伝」が、いきなりその年の興収ベスト5位にランクされた。

血しぶきあげて戦うラストシーン
しかし、最初に登場した「博徒」(監督・小沢茂弘)には驚ろかされた。全身刺青の鶴田浩二が、裸で日本刀を振り回し、血しぶきあげて戦うラストシーンは、リアルで壮絶だった。「とんでもない映画が現れた、これは世間のひんしゅくを買うが、当たるかも知れない」と感じたのは筆者だけだったろうか。
業務試写で観たのだが、終映後、関係者それぞれが複雑な顔で退席していった。これ以降、東映はくすぶっていた鶴田浩二を主役にした作品を連打する。鶴田の任俠シリーズは「人生劇場」シリーズ四本。「博徒」シリーズ一二本。「博奕打ち」シリーズ九本。「関東」シリーズ八本と量産された。

鶴田浩二ヤクザ映画で人気復活!
任俠映画の傑作と言われたのが、1964(昭和43)年1月14日公開の「博奕打ち総長賭博」(監督・山下耕作)である。作家の三島由紀夫が、雑誌「映画芸術」に「何という絶対的肯定の中に、ギリギリに仕組まれた悲劇だろう。
しかも、その悲劇は何と、すみずみまで、あたかも古典劇のように、人間的真実に叶っていることだろう。これは何の誇張もなしに名画だと思った」と語り、ギリシア悲劇にも通じる構成と絶賛した。
監督はこれで留飲を下げた
完成時に撮影所長・岡田茂から「芸術みたいなものを作るな」と叱責されていたので、監督はこれで留飲を下げたとか。
三島由紀夫の賛辞
当時、批評家は任俠映画をことごとく無視していた。三島由紀夫の賛辞で、任俠映画も初めて芸術面での評価を獲得し、これで市民権を得ることに成った。
この作品で鶴田を助演した若山富三郎も、長い不遇の時期を乗り越えて認められ、以後「極道シリーズ」などの一風変わったヤクザ映画のシリーズ主演を務める。
鶴田浩二に続いて出て来たのが高倉健だった。高倉は1963(昭和38)年「人生劇場 飛車角」にも出ていたが、主役で登場するのは1964(昭和39)年「日本俠客伝」(監督・マキノ雅弘)からである。
学園紛争真っ只中の時代
その後、1965(昭和40)年4月18日公開の「網走番外地」(監督・石井輝男)と続く。この高倉健、数々のヒットを飛ばし、1960年代の東映任俠映画のトップスターの地位を築いていく。

この時代の代表作は「網走番外地」シリーズ一八本。「日本俠客伝」シリーズ11本。「昭和残俠伝」シリーズ9本。ほか。
高倉健のシリーズ物は熱烈なファンが多く、社会現象にもなった。特に「昭和残俠伝」シリーズは、1964(昭和44)年、東京大学安田講堂事件に代表される、学園紛争真っ只中の時代で、高倉は学生には抜群の人気があった。
1968(昭和43)年の東京大学駒場祭のポスターでは、主役の花田秀次郎の唐獅子牡丹の刺青姿をイラストに「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが 泣いている 男 東大どこへ行く」のコピーが世間で話題になった。「昭和残俠伝」シリーズは、観客動員ベストテンの常連でもあった。
